夏の特別企画「原爆の図展」によせて ~ 丸木位里、俊、そして私の家族
ボランティア・戦争体験を語り継ぐ会  佐々木 陽子

                                           



 今年の夏、ピースあいちでは、特別企画展 ― 丸木位里・俊「原爆の図」展を開催予定で、私はその展示チームに参加し、今開催の準備をすすめているところだ。

 実は、私は広島出身でありながら、丸木位里、俊による原爆の図についてこれまでほとんど知識がなかった。ピースあいちに関わらせていただくようになって、丸木美術館の一時閉館を知り、慌てて昨夏初めて美術館を訪れた。
 壁いっぱいに広がる夫妻の原爆の図は、部屋から部屋へと続き、そのどれもが圧倒的な迫力で言葉を失った。人間が連なり重なり合う様子は、たとえ一人ひとりにはひどい火傷が表現されていなくても、その佇まいと表情から絶望感、虚無感、それからそこはかとない静けさが伝わってきた。

広島市地図 爆心地・飯室・三滝、大毛寺川

 丸木位里の生家は広島市の北部に位置する「飯室(いむろ)」というところで、私にとっては実家より少し奥まったところにある、とてもなじみのある場所だった。
 ただ、丸木位里が上京した後、一家は飯室を出て広島の市街地に近い三滝というところに居を移していた。原爆が投下された時には位里の父母、妹はこの三滝にいた。位里は原爆投下3日後、俊はその約1週間後に三滝の家にたどり着き、約1ヶ月を過ごしたという。この時の経験が、後に夫妻に原爆の図を描かせることになったのだ。

 この三滝の地には第二陸軍病院三滝分院があった。夫妻の著書『原爆の図』には俊が、この陸軍病院のカボチャを拾って雑炊にして食べたが、その後下痢が続いて苦しんだことが記されている。また、軍の救護所で医師や看護師が捌ききれない怪我人の列を呆然と見つめる様についても触れている。
 当時、私の祖父はこの三滝分院の軍医だった。8月6日8時15分、いつもはとっくに出勤している時間だったのに、自転車がパンクしてしまっていたため、爆心地から1キロ強の実家で自転車の修理をしていた。もしいつも通り出勤していたら、そこにいたのは祖父だったかもしれない。
 『原爆の図』にはまた、「赤い幽霊、白い幽霊たちは、太田川にそって奥へ奥へと歩いていったのです」、とある。私の実家のすぐ横には大毛寺(おおもじ)川という、太田川の上流部に流れ込む支流が流れている。そこで私の父は川下から歩いてやってくる黒い人々を目撃している。はじめは人だとはわからなかった。ただ黒いものが来たと思った。近くに来てみるとそれは人で、ずいぶんびっくりしたと語っていた。

 あの時、誰もが余裕がなかった。自分と自分の家族のことで精いっぱいだった。俊が三滝橋の下で座り込んでいた男性の横を毎日息をひそめて通りすぎ、その後もなかなか片付けられない屍となった男性のことを放っておいたと回顧しているこの体験は、今回ピースあいちで展示する「烏(からす)」を描こうとした思いにつながっているという。
 8月6日その時には広島にいなかった丸木夫妻も、俊にいたっては著書の記述から明らかに急性の原爆症症状を呈しており、間違いなく入市被爆者である。

 あの夏、丸木夫妻は、門扉の陰で熱線からは免れたものの原爆症で亡くなった私の祖父や、黒い人々を恐れながら見ていた父のいた広島で同じ時を過ごしていたのだ。
 この夏、一人でも多くの人に丸木位里、俊の生の原爆の図を体感してほしいと願ってやまない。