熱田空襲展に寄せて◆
運営委員  金子 力

                                           



 たった8分間で2000人を超える名古屋空襲最大の犠牲者がでた1945年6月9日の空襲は熱田区にある愛知時計電機と隣接する愛知航空機をねらったものでした。爆撃後の米軍報告書によると、42機のB29が265トンの高性能爆弾を投下、愛知時計電機工場の95.7%、愛知航空機発動機工場の53%に破壊や損害を与えています。米軍はなぜこれらの工場をねらったのでしょうか?
 米軍の日本本土爆撃作戦は大きく3段階に区分されていました。
 第1段階は日本の航空機の主力工場、とりわけ発動機(エンジン)製造工場の破壊です。1944年11月24日中島飛行機(東京)、同12月13日三菱重工発動機製作所(名古屋)の発動機(エンジン)工場への攻撃が始まります。中島飛行機へはのべ8回、三菱発動機へは7回の攻撃がありました。

 1945年3月10日から大都市を焼夷弾で焼き払う作戦が始まります。東京・名古屋・大阪・神戸の四大都市の人口密集地に焼夷弾を投下します。さらに4月~5月にかけて「沖縄支援作戦」九州各地の航空基地・飛行場を爆撃して、日本の特攻機出撃の妨害を5月11日まで続けています。
 5月14日からは大都市への焼夷弾投下が再開されます。その最初は名古屋でした。500機を超えるB29が名古屋市街地北部に焼夷弾を投下、名古屋城天守閣が焼け落ちたのはこの時でした。17日には名古屋南部市街地にも500機を超えるB29が焼夷弾を投下し、市街地をほぼ焼き尽くしたとして、日本の大都市の中で名古屋が最も早く焼夷弾投下目標から外されます。その後、東京、横浜、大阪、神戸の焼夷弾による市街地攻撃が終わると、米軍の作戦は変更されます。

 日本の梅雨に入ることを想定した攻撃になります。天気予報が雨天など上空から目標を目視できない時は、中小都市空襲(夜間に複数の都市に焼夷弾を投下)します。目視可能な天気の場合は複数の航空機工場等に爆弾を投下しています。米軍はこの作戦を「エンパイア作戦」と呼んでいます。
 6月9日エンパイア作戦の最初の攻撃は①川西航空機鳴尾製作所、②川崎航空機会社明石工場、③愛知時計電機・愛知航空機でした。これまで米軍が使用してきた爆弾の多くは250キロ爆弾が多く、1トン爆弾は5月・6月の沖縄支援作戦で継続して使用されてきました。

第1回エンパイア作戦で初めて使われた2トン(4000ポンド)爆弾。
(米国立公文書館蔵)

 ところが、6月9日のエンパイア作戦では2トン爆弾が初めて使用されます。愛知時計電機・愛知航空機への爆撃では投下弾150発265トンのうち121発242トンが2トン爆弾でした。より破壊力の大きな2トン爆弾は鉄筋コンクリート4階建ての建物を突き破り、地下室に避難していた従業員・動員学徒の命まで奪いました。


 人的被害の拡大には日本陸軍防空司令部による空襲警報の解除という致命的なミスがあったことが報告されています。6月9日B29の名古屋への侵入を警戒して7時45分に警戒警報を出しています。さらに、8時24分には空襲警報が発令され、愛知時計電機、愛知航空機の従業員・動員学徒は工場外へ避難しています。9時20分にはB29が阪神地方へ向かったと判断した防空司令部は空襲警報を解除しました。解除となって従業員・学徒が工場へ戻り作業を始めた時に突然爆撃が始まりました。
 当時、日本本土へのB29の接近はレーダーで把握できましたが、本土ではレーダーの配置が無く、民間の防空監視所の目視と聴音によってB29の位置を把握していたので、正確な位置を知ることができませんでした。日本側の記録「名古屋市内の30機以上空襲被害状況一覧表 昭和20年7月5日現在 防衛部指導課」では死者2067人、傷者2598人となっていますが、正確な犠牲者数などは今も分かっていません。

愛知時計電機、愛知航空機で2トン爆弾がさく裂する様子。攻撃中のB29が撮影した。
(米国立公文書館蔵)