2026年名古屋空襲展◆8分間で奪われた2000人のいのち・1945年6月9日「熱田空襲」
運営委員 林 和子
・・・大地の震動が止み、豪の外へ出るとあたりは砂塵が荒れ狂い、黒煙のなかを何百人の工員や学徒が、悲鳴をあげながら逃げまどっている。地面には木材やコンクリートの残骸、鉄筋四階建ての研究館はぽっかり穴があき、窓ガラスは全部吹っ飛んでいる。
…そして、第二波・第三波の空襲…。大地の震動がぴたりとやんだ。恐る恐る壕から出ると、あたりは黒煙と砂塵。助かったものが土砂にまみれ土砂にまみれ、よろめきながら現れた。だれもが怯えきった目であたりを見渡し、呆然として立ちすくんだ。・・・
1945年6月9日、名古屋市熱田区の愛知時計電機と愛知航空機をねらった米軍の空襲(熱田空襲)の状況を証言する、当時勤労動員されていた中学3年生の証言です。
「熱田空襲」は、わずか8分という短時間で名古屋空襲最大の2000人を超える犠牲者が出ました。3月10日から始まる今年の名古屋空襲を知る企画展では、この「熱田空襲」についてみなさんと考えます。
1944(昭和19)年12月から1945年8月まで、名古屋とその周辺に米軍は何度も空襲をしました。兵器を生産している軍需工場には主に爆弾で攻撃をしました。工場の無い住宅や商業地域には焼夷弾を使って、街全体を焼き払うこともしました。
米軍は多い時には300機のB29爆撃機(500機の時もありました)を動員して爆弾や焼夷弾を投下し、軍需工場を破壊して、名古屋の中心部を焼き払いました。それでも、6月9日「熱田空襲」を超える犠牲者は出ていません。
「熱田空襲」で米軍が動員したのは42機のB29でした。上空で爆弾を投下した時間は8分間でした。にもかかわらず2000人以上の人々が犠牲になっています。それまでの空襲と何が違っていたのか、日米資料で明らかになってきた事実「熱田空襲」の実態にせまります。
<展示内容(パネル29枚、他)>
●なぜ愛知時計電機がターゲットになったのか
時計生産の50%を占めていた名古屋/ 「愛知時計」の誕生と軍事精密部品の生産/海軍へ艦上爆撃機を独占的に供給 他
●なぜ8分間で名古屋最大の犠牲者が出たのか
ある勤労動員学生の証言/米軍「エンパイア作戦」が最初に実行された日/2トン爆弾が初めて使われた日/被害を拡大させた警報ミス/市民を守り切れなかった軍の防空
●6月9日の空襲を語り継ぐ
体験者の証言から
●トピックス
名古屋における軍需工業の歴史