第13回寄贈品展 オープニングイベント
ボランティア 川越 敏行
12月2日から第13回寄贈品展が始まりました。初日11時からオープニングイベントが開かれ、4人の寄贈者の方々に、寄贈品にまつわるエピソードなどを話していただきました。その様子をご紹介します。
1.寄贈者 高山 文子さん (当館ボランティア)
1945(昭和20)年1月、寄贈者の母・加藤 美津子さん〔1936年生まれ〕が当時住んでいた、京都市に空襲があり、小学校では「学童集団疎開」が始まりました。小学校4年生になった美津子さんも京都駅から鉄道で2時間かかる綾部市のお寺に集団疎開しました。寄贈品は疎開先のお寺で撮った集合写真と、その4年前に撮った幼稚園の卒園式の写真です。寄贈者の高山 文子さんは次のように話しました。
高山 文子さん
「二つの写真を比べてみると、戦争のため食料事情が悪化する中で、子どもたちの体がやせ細っていったことが分かります。疎開先での生活を母は次のように話していました。1週間に一度、近くの小川から水を汲んできて、風呂に入りました。麦入りの白米のご飯が出たけれど、いつもお腹がすいていました。農家の田植えや稲刈りを手伝いました。」
2.寄贈者 河原 忠弘さん (当館ボランティア)
寄贈品は、寄贈者の兄・河原 勇さん〔1926(大正15)年3月生まれ〕が持っていた本、『きけ わだつみのこえ』*の初版本です。勇さんは終戦間際の1945(昭和20)年8月12日に軍隊に召集されましたが、その時の様子について話してくれました。
河原 忠弘さん
「兄は山梨県の甲府にある部隊に行きましたが、兵舎には鉄砲が3丁しかなく、これじゃ戦争はできないなと思ったそうです。戦闘の訓練を受けるため、千葉県の銚子に汽車で向かいましたが、途中の八王子駅で列車が停車した時に終戦を知らされました。しかし、特段の命令が無いため、そのまま出発、銚子の手前で宿営しました。やっと帰宅できたのは9月3日の夜でした。その時のことは自分も覚えていて、兄は毛布と乾パンと少しの金平糖(こんぺいとう)を持って、帰って来ました。
1949年、兄は大学を卒業し就職しましたが、その年の10月に『きけ わだつみのこえ』の初版が定価200円で発売されました。今のお金で1万円くらいの価値だと思われますが、この本に載った学生達とほぼ同じ世代だったので、無理してでも買いたかったのだろうと思います。」
*『きけ わだつみのこえ』
戦没学生の遺書を集めた本。東大協同組合出版部から発行された。
3.寄贈者 伊藤 一成さん
寄贈品は寄贈者の母方の祖父・今井 鎰五郎さん〔1908(明治41)年生まれ〕が所持していたものです。鎰五郎さんは1941(昭和16)年、インドネシアに派遣されましたが、終戦で、オランダ軍の捕虜になり、1950年に横浜港に戻りました。戦犯として東京の巣鴨プリズン(刑務所)で服役、1952年に戦犯罪が解除されました。寄贈者の伊藤 一成さんは次のように話しました。
伊藤 一成さん
「私が最も心を動かされたのは血の付いた軍票*です。どのような人が持っていたのか、どのような事情で血が付いたのか分かりませんが、色々想像することができます。遺品についてはまだ分からないことが多く、今後も調べて行きたいと思います。戦争について伝えて行くことは大事だと思います。」
*軍票(軍用手票)
軍隊が占領地等において物資調達などのために使用した、日本政府発行の疑似紙幣。
4.寄贈者 樋口 真也さん
寄贈品は寄贈者の父・樋口 次雄さん〔1913(大正2)年生まれ〕の遺品です。次雄さんは建築設計の技術者でしたが、1944(昭和19)年8月、31歳で召集され、満州(現・中国東北部)に派遣されました。終戦でソビエト連邦(現・ロシア連邦)の捕虜となり、シベリアで1年9ヵ月の厳しい抑留生活を送りました。 寄贈された飯盒(はんごう)には、蓋などにロシア語のキリル文字で「ヒクチ」と名前が刻まれています。寄贈者の樋口 真也さんは次のように話しました。
樋口 真也さん
「家庭での父は口数が少なく、戦争のことはあまり話しませんでしたが、短歌が好きで、たくさんの短歌を残していました。私はこれらをまとめて、一冊の本を出版しました。私は70歳を過ぎ、後継ぎがいないので、遺品をピースあいちに寄贈することにしました。」
まとめ
寄贈者のお話から戦争の実態が見えてきました。食べ物が乏しい疎開生活、終戦前後の緊迫した様子、捕虜としての厳しい抑留生活の様子などが伝わってきました。
そして、皆さん、戦争のことを語り継ぐ大切さを話していました。