「子ども企画展・戦争の中の子どもたち」に寄せて

運営委員  橋爪 玲子





 9月23日から「2025 ピースあいち子ども企画展」が始まりました。戦時下の教育や子どもたちの暮らしを、当館所蔵の実物資料と平易な文章で書かれたパネル展示を通して振り返ります。戦時下の子どもたちに自分自身を重ねて見ていただきたいと思います。また、「ゾウを守った東山動物園」や「戦時下の動物」についても展示しています。

 今回の特別展示は、「学童疎開」を取り上げています。戦況の悪化に伴い、子どもたちも次第に軍事体制に組み込まれていきました。都会では空襲が激しくなり、1944(昭和19)年の夏から学童の集団疎開が始まりました。親もとを離れ、慣れない環境で空腹を抱え、農作業にも励んだ集団疎開の実情を紹介しています。当時の献立表を参考に、疎開先での食事を再現した写真も展示しています。

 また、障がいを持った子どもたちの集団疎開についても焦点を当てました。戦時下では、健常児の疎開が優先され、当時唯一の肢体不自由児のための公立学校であった東京都立光明国民学校(現・東京都立光明学園)は、学童集団疎開の対象から除かれました。
 やむをえず、世田谷本校の校庭に防空壕を掘り、校舎に寝泊まりする異例の「現地疎開」を始めました。しかし、1945年3月10日の東京大空襲の惨状を見た松本安平校長は、現地疎開の限界を感じ、自力で疎開先を探すことを決意しました。3月26日に長野県を訪れ、ようやく更級郡上山田村(現・千曲市)上山田ホテルに受け入れが決まりました。
 5月15日に貸切鈍行列車と木炭バスを乗り継ぎ、児童50人余と教職員、付き添い人を含めて150人ほどで移動しました。集団疎開が実現したわずか10日後の5月25日の空襲で、光明国民学校の本校の大部分を焼失しました。東京で現地疎開を続けていたら、多くの犠牲者が出たことが予想されます。1946年3月31日で学童集団疎開は終了しましたが、校舎を焼失した光明国民学校は、戦後も上山田村での疎開生活が続きました。当時は、肢体不自由児を受け入れる学校が少なく、同年4月1日、「戦災孤児等学童集団合宿所」として残留が認められました。
 1949年に校舎が再建されて、4年間に及ぶ長い疎開生活が終わりました。これは、学童集団疎開期間の最長記録でした。

 光明国民学校の学童集団疎開については、その後語られることはありませんでした。
 しかし、集団疎開の記録を残し後世に伝えたいと、元教員が中心となって、1993(平成5)年開校60周年を機に『信濃路はるか 光明養護学校の学童疎開』が出版されました。
 卒業生の手記や写真、疎開生活の様子を親もとに知らせるために教師が発行した「学寮通信」など、当時の状況を知る貴重な資料が収められています。

 また会期中、2階映像コーナーで光明国民学校の紙芝居『あんずの花につつまれて』もご覧いただけます。
 子どもたちをはじめ、多くの方に見ていただき、本展が戦争と平和について考える機会となることを願っています。

紙芝居 『あんずの花につつまれて』 (2階映像コーナー)