戦後80年、今思うこと
半田空襲を記録する会 藤井 真理子
私は1952年に生まれました。父は1917年生まれ、母は1923年生まれで、ともにまさに青春時代は戦争の真只中を生きました。父はもちろん召集され、兵隊になりました。母は中島飛行機半田製作所で事務員として働いていました。私が育つ中で、父や母は戦争時代の話を何度でも話していました。

父の話は、軍隊での、殴られてばかりの毎日、高射砲での発射角度の話、その際三角関数が必要でそれができたおかげで、外地に送られずに内地で終戦を迎えられた事を話していました。一緒に入隊した同胞が南方で戦死したことなどもです。
母は、1944年12月7日の昭和東南海地震での飛行機工場の液状化の様子や、半田高女の29名の惨状の具体的な様子を絵に描いて聞かせました。また工場の被害は深刻な状況でしたが、凄まじい箝口令で、親兄弟であっても、工場の様子については話してはいけないと言われた事や、飛行機を造る現場の様子や労働の様子を話していました。
親戚が集まると、みんながそれぞれの戦時中の厳しかった毎日について話していました。
私の世代は親世代の厳しい戦争体験を聞きながら育ったわけです。父の弟は、ビルマで戦死しており、私の祖母は、その弟の話を、いつも涙を浮かべながらしていました。
夫の父や母は、満州からの引き揚げ者です。父は中央アジアに抑留されており、指の一本が途中から切断されていました。しかし父は、戦争の事は何も語らずに亡くなりました。母は満州の収容所で亡くなった三人の子どもの事を悲しい目をしながらいつも話していました。
私達は戦争の生の体験を聞きながら育った世代なので、次に伝える事が責務と考えています。