抜け目ないAIと付き合うには◆ピースあいち常設展・展示解説英語版への道 その2
当NPO理事  西形 久司




                                           
 

 英語の力は辞書のぼろぼろ具合に比例すると、よく言われた。親の仇のように英和辞典を手荒に扱い、ついに英和辞典の表紙と本体がばらばらになったとき、英語の力がついた!ような錯覚にひたった。表紙が分離することを表紙抜けと言ったが、実際に英語の実力の方も拍子抜けであった。
 いま、英語の辞書を引いたりしていると、「いまどき……」という顔をされる。半分さげすんだように「紙媒体」などと言われたりもする。ちょっぴりくやしい。わが人生を振り返れば、大学の入学祝いでもらった人生初の図書券は、研究社の『新英和大辞典』に使った。文学部に入ったら、シェイクスピアのソネット(14行詩)の演習授業があった。これはさすがの『新英和大辞典』でも足りず、O.E.D(オックスフォードの辞書)を引けと言われた。二人称はyouではなくthouで、「汝」と訳したりしたが、私にとっては難事であった。単位を落としてしまったからである。私ひとりではなく、一緒に受講していた男子学生は仲良く討ち死にをした。結論。シェイクスピアは女子学生が好みらしい。

展覧会場の様子1

「ピースあいち常設展示英訳来月完成」と
中日新聞で報道

 そしていまは機械が翻訳する奇怪きわまりない時代になった。あの私(たち)の悪戦苦闘は何だったのだろう。グーグルやディーブ・エルなどの翻訳ツールは、「紙媒体」ウン万冊分の情報が詰まっているという。厚さ8センチの『英和大辞典』級の本にして積み上げたら、エベレスト何個分になるのだろう。この先は信じる者しか救われない。信心の世界である。
 このような機械翻訳は人工知能の応用分野の一つである。最近よく耳にするようになったAIは人工知能の略称である。このAIには学習機能があるという。つまり人間と同じように学習により知識を獲得していくのである。そのおかげで日本語特有の表現であっても、思いのほか、こなれた英語に置き換えてくれるのだとか。

 

 それでも不信心な私は、いじましくもAIの仕事ぶりをチェックしてみたくなる。こんな例があった。「銃後」という語をAIはpost-gunと訳した。post-という接頭辞は、時間や順序が「後」というときに語頭に付くようである。たとえばpostwar(戦後)のように。とすればpost-gunは銃をポイと棄てたあと(武器よさらば!)、あるいは銃に代わる新兵器の登場という意味になる。前者であれば、とてもめでたいことであるが、「銃後」は空間的に後ろの方を指す語である。前線frontよりも後方ということであるからhome front(国内の戦線)と英訳するのが普通のようである。
 またこんな例もあった。B29が積載する通常爆弾を、くだんの翻訳ツールは conventional bombs と訳していたが、conventionalは核兵器に対する通常兵器を指すときに使われる語であるから、AIは前後の文脈と無関係に、単語だけを置き換えたようである。

展覧会場の様子1

2階常設展示に付けられたQRコード

 単に単語のレベルにとどまらない。日本語原文が入り組んだ構文だと、文と文の修飾関係や接続関係を誤読している例が少なからず見られる。さらに猜疑心のカタマリになって、ねちねちと日本文と英訳文を対比していくと、AIの学習ぶりがだんだん見えてきた。抜け目ない生徒であるAI君は、先生の目の届かないところでどんな学習の仕方をしているのか。
 日本語原文に白とも黒ともつかない曖昧で、日本語ネイティブであるはずの私たちですら、思わずその前で立ち止まって天を仰ぐような表現が出てくると、AIは人間と同じ反応をする。つまりサボる、ごまかす、手を抜く。挙句の果てに厄介な部分だけすっ飛ばして知らん顔をしているのである。したがってよくよく日本語の原文と対照していかないと、AIにだまされていることに気づかないことになる。大量の文章を翻訳していくうちに、AIも疲れてくる。疲れても休ませてもらえない時、人間はバレないようにこっそりとサボる、ごまかす、手を抜く。抜け目ないAIもまた同様。学習するとは人間臭さを獲得するということだったのか??
 高度な知能はデリケートなので、壊れてしまったらおしまいである。そこで再起不能にならないように、適当に怠けるのである。見えないところでサボり、ごまかし、手抜きをするのは、知能の発達した人間の人間たる所以なのかもしれない。怠けることが人間らしさを支えるのだとすれば、怠ける時は誇り高く怠けようぜ! ね、そうだろう、AI諸君!

 

 AIの仕事ぶりをみる限り、機械も人間の領域まであと一歩のところに来ているように思われる。いずれそのうち、意思や感情をもつもののように、機械も自己主張を始める時がやってくるかもしれない。機械も意思を持つ? そう。チェコの作家カレル・チャペックのロボットのように。チャペックが戯曲『R.U.R(ロボット)』を発表したのは1920年、ほぼ1世紀前のことである。チャペックの予見が正しかったとすれば、やがて人間に対してAIが反乱に立ち上がり、人間がAIの挑戦を受ける日が訪れるのだろうか。
 ちょっとSFめいているけれど。ここから先は、信じる者も救われないかもね。