企画展「名古屋空襲を知る―なごや平和の日制定に寄せて」
ピースあいち 空襲展チーム





 

 3月12日から企画展「名古屋空襲を知る―なごや平和の日制定に寄せて」が始まります。
 今年の企画展は、
①「名古屋空襲」について近年公開された米軍の資料を通して明らかにする
②「名古屋空襲慰霊の日」制定を求めるなど、東邦高校の生徒たちが取り組んできた平和活動の紹介
③戦争体験をされた方のお話を聞き制作した東邦高校美術科生徒たちの作品
を展示します。「名古屋空襲」とはどんな空襲であったのか、あらためて考えたいと思います。

 名古屋は東京と並んで、繰り返し空襲を受けました。軍需工場に爆弾が落とされ、市街地は焼夷弾で焼き払われました。住宅だけでなく学校や病院などにも容赦のない攻撃が続き、国宝の名古屋城天守閣も燃えてしまいました。
 米軍の日本への空襲作戦は、その資料によると3期に分けられます。(以下展示パネルの概要)

第Ⅰ期は1944年11月24日から1945年3月9日の軍用機製造工場への爆撃です。
 米軍は「日本の軍需工場を破壊せよ!」と軍用機工場27カ所に対してのべ51回の空襲を行いました。最初に狙われたのが、飛行機のエンジンを造る中島飛行機武蔵製作所(東京)と三菱重工名古屋発動機製作所と三菱重工名古屋航空機製作所でした。
 名古屋への初空襲は1944年12月13日、三菱重工名古屋発動機製作所(従業員21,639人)でした。米軍第20航空軍第73航空団90機が出撃、そのうちの71機が186㌧の爆弾を投下しました。犠牲者330人の中で動員学徒は62人でした。東邦商業(現東邦高校)の生徒18名、教師2名が犠牲になりました。
 三菱重工名古屋発動機製作所への空襲は1945年4月7日までに計7回。2673トンの爆弾が投下され、2714人が犠牲となっています。三菱重工名古屋航空機製作所へは2回、260トンの爆弾が投下され524人が犠牲となりました。

第Ⅱ期は1945年3月10日~1945年6月15日の大都市への焼夷作戦です。
 1945年3月10日の東京大空襲から大都市市街地を夜間、低空(1800m前後)からレーダーを使って、焼夷弾を投下して大火災を引き起こして焼き払う「地域爆撃」を始めました。
 米軍は焼夷弾の効果を調べるために、1943(昭和18)年5月ごろからユタ州ダグウェイで日本の家屋(外装だけでなく、タンス・ふすまも)を正確に再現し、焼夷弾を使って焼失する実験を繰り返してきました。日本の20都市について、各都市への攻撃に必要な焼夷弾量を試算し、作戦に当たっては、それぞれの都市を効率よく焼き尽くすための「焼夷区画図」を作成しています。そして、攻撃前、攻撃中、攻撃後に高性能カメラで空中写真を撮影し、空襲後の空中写真から焼夷弾の着弾地点と火災発生場所を確認して損害評価を行っていました。
 名古屋市街地は4回(3月12日、19日、5月14日、17日)の大空襲によって「大都市の中で一番最初に焼夷作戦が終了した」と、米軍の資料にあります。

 

 1944(昭和19)年12月から始まった名古屋への空襲によって市内の国民学校は100校以上が被災しました。これは市内の国民学校の76%にあたります。国民学校の校区は「連区(=複数の町内会)」が基本で、教育機関であると同時に地域の防災拠点でもありました。第Ⅰ期の軍用機製造工場への爆撃の時期にはまだ学校の被災は少ないものでしたが、3月から始まった第Ⅱ期の焼夷弾攻撃では非軍事施設の学校まで容赦なく焼き払われました。

第Ⅲ期は1945年6月17日~8月15日の中小都市への空襲です。
 大都市が焦土となった後、全国の中小都市57への焼夷弾を使った攻撃が行われます。
 愛知県では、豊橋、一宮、岡崎への市街地焼夷空襲と並行して、愛知時計電機、千種工廠、熱田工廠、愛知航空機永徳工場などの軍需工場への爆弾による空襲がありました。また、広島に原爆を投下したエノラ・ゲイ号による名古屋市八事日赤付近への模擬原爆パンプキンの投下もありました。

 「名古屋空襲は何月何日ですか?」「空襲は何回あったのですか」「犠牲になった方は何人ですか?」「沖縄や広島のように、空襲犠牲者の名簿はあるのですか?」・・・。
 なごや平和の日制定にあたり、「名古屋空襲」についていろいろな疑問やご意見が出ています。この機会に「名古屋空襲」を学び、そして平和について考えていきたいと思います。