遺品、寄贈者の思いを聞きながら…◆第11回寄贈品展に寄せて
ボランティア  土井 亜由美





 

 第11回寄贈品展が昨年12月5日から始まりました。私は今回、初めて資料班の一員として寄贈品展に参加しました。
 資料班のメンバーは、それぞれが担当した寄贈者から寄贈品にまつわるエピソードを聞き、それらをもとに目録を作成します。寄贈者の寄贈品に対する思いやご家族の思い出を聞くたびに、感慨深くなりました。ピースあいちで大切に保存し、多くの方々に見て感じていただきたいという気持ちが強くなりました。

平手妙子さんの日記(青柳清子さん寄贈)

 私が担当した寄贈者の一人である青柳清子さんの寄贈品は、叔母の平手妙子さんが使用していた手帳です。平手妙子さんは、名古屋市立第三高等女学校(現旭丘高等学校)在学中の1945年(昭和20年)1月23日、校庭の防空壕が爆撃されたときに亡くなった42名の生徒の一人でした。
 青柳さんは、妙子さんの姉である母親の銈子(けいこ)さんから聞いた空襲当日の話を私に伝えてくれました。寄贈された手帳には、学校の予定や日課などが几帳面に記されていました。また、ビルマへ出征した長兄の正夫さんの写真も挟まれていました。
 私の心に深く刻まれたのは、母親のなをさんについての話です。なをさんは、妙子さんだけでなく、正夫さんや次男の明夫さんも戦争で亡くしたことから深い悲しみに包まれ、毎日を泣きながら暮らしました。その結果、虹彩炎という目の病気に罹患し、ほとんど視力を失ってしまったのです。


山吹谷公園にある碑(東区・市三高女跡地)

 名古屋市立第三高等女学校の跡地は現在、山吹谷公園として地域の人々に親しまれています。公園の一角には、亡くなった生徒たちを偲ぶ碑が建てられています。私も子どもたちが小さい頃、この公園でよく遊ばせていました。しかし、今は穏やかな時間が流れるこの公園が、悲惨な出来事の現場であったことは、ピースあいちのボランティアとして活動するまでは全く知りませんでした。


 平和はたゆまぬ努力を続けて守っていかなければ、簡単に失われてしまうものだと最近の世界情勢を見てつくづく思います。微力ながら、私にできることを今後も続けていきたいと思います。