ボランティア雑感◆「語り継ぎ手その後」
ボランティア  田中 玲子



   

 私がピースあいちの「戦後75年プロジェクト」の語り継ぎ手の研修を受けて、3年経ちました。私の父は14歳の時に三重県津市の空襲で自分の母親と妹を失ったのですが、私たち家族にその事をほとんど話すことはなく、私も聞けぬままに、5年前に亡くなりました。『お父さんは、戦争をどのように考えていたのだろう?』という思いが、研修への参加動機でした。  

 その後、他の受講生の語り継ぎや想いを聞きながら、自分が納得して話せる事は何だろうと悩み、父と同じ世代の方の話、また自分が今住んでいる熱田区のことならと、熱田空襲を語り継ぐことにしました。
 幸いなことに、熱田空襲を13歳で経験した堤茂子さんから直接お話を聞くチャンスを得ました。しかし、何度か語り継ぎをするうちに、自分でも当初の新鮮さを失ったと感じるようになりました。父を失った悲しさが徐々に薄らいだのだと思います。そして、もう一度、堤さんのお話を聞いた方が良いと感じるようになりました。

展覧会場の様子1

語り継ぎ手の会の研修会で朗読をする筆者

 今年10月、堤さんにお会いする機会をもつことができました。再度お会いした後、堤さんが強く伝えたいことは何だろうかと考えました。
 堤さんは空襲を語るとき、何度も言葉を探しながら言い換えます。その場面を語るに適した言葉が見つからないようにみえます。
 空襲の様子は、まさに地獄である。私たちにその無惨さを知ってほしいと表現しようとするが、当てはまる言葉を見つけられない。記憶は日が経つにつれて、薄れていくものだが、衝撃的な出来事は何度も思い出す。そのうちに長期記憶として半永久的に保持され、消えることはない。その記憶は、スライドのような場面の集まりで、ありありとした形で残るらしい。
 堤さんは、「当てはまる言葉」を探しているのだと思いました。
 同時に、空襲を逃れ、歩いて家に向かって帰る途中、その辺りに住んでいた人たちが、四方に大きな布を立て、汲んだ井戸水で体を洗ってくれ、きれいな服に着替えさせてもらったことも目の前で起きているように話されます。「有難かった」という言葉とともに。  

 私は、表現しがたいほどの空襲の悲惨さと人を思いやる心の大切さを語る堤さんの想いを伝えなければと思いました。堤さんに起きたことを私の父に当てはめられるわけではありませんが、戦争の時代、多くの人が似たような経験をし、語る言葉を失ったとしても不思議ではありません。
 語るには、それに合う言葉を探さなければなりませんが、それは衝撃的なその場面と再び向き合う苦しみが伴います。それでもなお、話してくださった堤さんに感謝するとともに、話さなかった父の心持ちが、また少し理解できたと感じました。
 研修から3年、私は今、新たな気持ちで語り継ぎの場に立てるように思っています。