岡崎市遺族連合会(岡崎市平和祈念式典)での語り継ぎを終えて(7月21日)
ボランティア・語り継ぎ手の会  小澤 美由紀

                                           
 


 私が戦争体験の語り継ぎ手になろうと思ったのは、自分の国の歴史を学ぶためともうひとつ、祖父母の話をもっと聞いておけばよかった、との後悔からでした。
 ピースあいち戦後75年プロジェクト「語り継ぎ手ボランティア研修会(2020年10月~)」へ参加し、早いもので3年を迎えようとしています。
 「戦争の事に関わるのは人の死に向き合うことだよ、それに耐えられる?生半可な気持ちでできることじゃないよ」。これは、私が研修会へ応募する時、母よりかけられた言葉です。その時は「そんなに大変なことだろうか」と思っていたのですが、時が経つにつれこの言葉の重みをひしひしと感じるようになりました。

展覧会場の様子1

岡崎市遺族連合会(岡崎市平和祈念式典)で(7月21日)

 現在、トラック諸島で戦死した17歳の大叔父(祖父の弟)の語り継ぎをしています。家族に告げられたのは「南洋群島方面にて戦死」の言葉のみ、遺骨もなく、大叔父が家族の元を離れた後どのような生活を送っていたか、そして最後の時をどのように迎えたのか、当時は知ることができませんでした。
 語り継ぎが終わった後に一人の女性( 20代~30代位)が声をかけてくれました。「残された家族はどこかで生きているかも、と期待してしまいますよね」と。まさしく、その通り。一時私も同じことを思っていました。
 私の祖父は今から24年前に亡くなりました。祖父は元気な頃、畑仕事を終え、汗を流した後によく縁側で夕涼みをしていました。その後ろ姿を思い出した時に、祖父は弟が帰ってくるのを待っていたのではないだろうか、とふと思ったことがあります。生前多くを語らなかった祖父、今となっては聞くことはできませんが、夕涼みをする祖父の背中に少しは歩み寄ることができているでしょうか。

展覧会場の様子1

 「貴方たち若い世代の方がこのような活動をしてくれて嬉しい」この言葉は遺族連合会の方より頂いた言葉です。私の拙い話にも熱心に耳を傾けメモを取ってくださる方、当時を思い出しながらか目をつむりうんうんと頷いてくださる方もみえました。
 「私の父は戦地で亡くなり、遺骨の代わりの小さな爪のかけらを今も大切に持っています」「私は父が出征した後に生まれたから、父に会ったことがないのよ」とご自身の話も聞かせてくださった方もいらっしゃいました。
 遺骨がないことや最後の時を知ることができなかったのは、わが家に限ったことではありませんでした。そういう家庭がたくさんあることはわかっていたものの、実際に生の言葉を聞かせていただけたことにより、私自身にとっても特別な意味を持つ語り継ぎ活動になりました。