夏の特別展「新美南吉の生きた時代―文学と戦争と平和」に寄せて
当NPO理事  西形 久司







 私が初めて「せつない」という感情を覚えたのは、いわゆる「ひろすけ童話」の「むくどりのゆめ」(浜田広介・作)でした。巣穴のなかで父鳥と、帰らぬ母鳥を待っているむく鳥の子の物語です。名付けようのない感情に「せつない」という言葉があてはまることを知ったのは、大きくなってからでした。
 金沢の小学校では、生活綴り方に熱心な女性の先生に受け持ってもらいました。毎日、日記を書いて先生に提出すると、帰りの会までに、先生がガリ版刷りにして配ってくれました。たびたび自分の書いたものが取り上げられるものですから、すっかり有頂天になっていました。原稿を頼まれれば(頼まれなくても)ほいほいと引き受けてしまうのは、幼いころの後遺症なのです。さてさて。その先生は、校外授業と称してクラス全員を映画館に連れていってくれたり、教科書そっちのけで先生が選んだ作品をガリ版刷りで配ってテキストにしていました。

先生推薦の作品の一つが新美南吉の「ごんぎつね」でした。テキストのところどころに余白がつくってあって、さあ今から色鉛筆で挿絵を描いて自分だけのテキストをつくりましょう、などという時間があったりして、私を手が付けられないほど有頂天にしてしまいました。
 「ごんぎつね」も「むくどりのゆめ」に負けないくらい「せつない」物語です。心の中に、たぷんたぷんと音がするくらいに涙がたまってしまいます。


 さて。今年の1月22日の日曜日の「中日新聞」の社説(週のはじめに考える)では新美南吉が取り上げられていました。タイトルは「拾ったラッパの使い道」。そう、新美南吉の「ひろったらっぱ」が社説になったのでした。今年2023年は新美南吉生誕110年。30歳になる前に亡くなっていますから、没後80年でもあるのですが。
 「ひろったらっぱ」は、貧しい男の人が、戦争で手柄を立てて偉くなろうと戦地を目指して歩いて行くうちに、偶然にらっぱを拾います。このらっぱでらっぱ手になろうと意気込むのですが、戦争のために畑を荒らされて途方に暮れている老夫婦に出会ったりするうちに考えが変わり、このらっぱを気の毒な人たちを励ますために使うことにしました。やがてらっぱに勇気づけられた人々が蒔いた種がみのり、あたり一面を麦畑に変えるのでした。
 この作品が書かれたのは1935年ですから、新美南吉はまだ21歳、東京外国語学校の学生でした。ただし、この作品が活字になるのは南吉の死後5年を経た1948年、つまり戦後になってからでした。
 現在では、「ひろったらっぱ」は葉祥明さんの絵を添えて絵本になっています(にっけん教育出版、2003年)。その解説を、『校定・新美南吉全集』の編集に携わった保坂重政さんが書いているのですが、それによると、新美南吉は、1933年の小林多喜二の殺害事件を機にプロレタリア文学にも触れるようになり、しだいに社会主義に共感を抱くようになったとのことです。日記にも、両親に共産主義の「妥当性」を説き、両親からは「思っていてもよいから口に出すことは更に更につつしめ」と忠告されたことを記しているそうです。
 先の「中日新聞」の社説は、新美南吉は書きたいことも書けなくなる戦争に反対していたが、一方では、人間は「弱い存在」だから戦争はなくならないと感じていたという、新美南吉記念館の館長・遠山光嗣さんの言葉を紹介しています。社説がこのタイミングで新美南吉を取り上げたのは、「南吉が味わっていたのと同じような息苦しさ」が、いま再び私たちの身に迫ってきているからだと言います。

 さてさて。私自身は、戦争が怖いのは、戦争を担わされるからではなく、いつの間にか担ってしまうからだと考えています。巧みな情報操作や目に見えない同調圧力のもとで、初めのうちはしぶしぶ、やがてみずから進んでいそいそと、戦争を担ってしまうのではないか。拾ったらっぱで兵隊たちを鼓舞してしまうのではないか。私自身、「弱い存在」であることを、自覚しつつ自戒していかねばと思っています。
 最後にドイツに踏みとどまってナチスを批判し続けた作家エーリッヒ・ケストナーの言葉を紹介しようと思います。そんなに強いわけでもない自分への自戒の言葉として。
 「雪の玉が雪崩になる前に踏みつぶせ」!
――ケストナー『子どもと子どもの本のために』(岩波同時代ライブラリー、1997年)