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夏の特別展「新美南吉の生きた時代―文学と戦争と平和―」をどうぞ見て、味わってください
ボランティア  高橋 よしの






 『あじさいにカンナがさいている庭を、白い蝶がひとつ、ちらちら遊んでいて静かである。わずかこれだけの平和をまもらんために、数万の同胞は、血を流して戦わねばならぬのである。人間はなんと、しあわせうすく生まれたものであろうか。
 はたして平和が常態なのか。
 戦いが常態であって、平和は戦いと戦いとのすきま、つまり、変態にほかならぬものではあるまいか。
 戦いが常態であるならば、文学をすることも、学問をすることも(実学以外は)なんと無意味なことであろうか。』

 これは新美南吉が1942年7月3日に書いた日記である。平和な日常の暮らしを願う思いがにじむ。その半年前に太平洋戦争の開戦を知り、4月には初めての空襲を生徒たちと体験したことが日記に書かれている。
 1913年に生まれた南吉は29歳でこの世を去った。あまりにも、短い人生であった。その死は家族や周囲の人たちからも惜しまれ、何より南吉自身がその死を惜しんだ。もっと生きたかった、もっと書きたかったと。
 南吉は中学2年(14歳)の頃から文学に興味を持ち、小説や詩、童謡集を読み、作品を書き投稿した。中学4年(16歳)には童謡、詩、童話など多数書いた。後の「張紅倫」、「巨男の話」もこの時期の作品。
 1931年(18歳)、「ごん狐」を教室で児童に語る。復刊『赤い鳥』に「窓」が採用される。
 1932年1月に「ごん狐」が『赤い鳥』に掲載、東京外国語学校に入学してからも、『赤い鳥』『チチノキ』へ童謡を多数投稿、幼年童話も書く。1936年10月二回目の喀血で療養に専念しようと、11月半田に帰郷。
 1938年4月念願がかない安城高等女学校の教諭に就任。生徒の作文を添削したり、戯曲を書いて生徒に上演させたり、熱心な教諭ぶりを発揮。その間も、創作は続ける。
 1942年1月、病勢の進行を自覚していたが、“チェホフを読むとまた書きたくなる”と日記に。
 1943年1月最後の童話数編を書き、3月22日結核で永眠。

 南吉は文学に親しみ、あふれるばかりの思いを作品に書いた。と、同時に南吉の生きた時代は、日中戦争と太平洋戦争時に重なる。戦争が次第に民衆の生活を脅かし、開戦、空襲。南吉はその時を生き、人々の暮らしや時代をどう見ていたのか。その視点でピースあいちは「新美南吉の生きた時代―文学と戦争と平和―」の企画展を開催します。
 南吉の生きた時代を半田、東京、安城時代と区切り、戦争と平和への思い、それら4つのジャンルに分け展示します。創作や日記の中から見えてくる人々を見る眼、その暮らしぶりから感じる交流ややさしさ、そして自然を愛する心、それらが作品に結実しています。戦争へとすすむ時代に抵抗する人と身近に接しながら自己省察と表現への苦悩。病をえてからは、死ぬことへの恐れと孤独。それでも生きたい思い、書き続けた南吉。それらを考察しながら展示へとこぎつけました。
 日本が戦争へまた歩み始めるかと感じさせられることが多いこのごろ。日常の平和を守るために戦わねばならないとしたら“人間とはなんとしあわせうすく生まれたものであろうか”という南吉の言葉が問いかけます。ほんとうに人間は“幸せうすく生まれた”存在なのだろうかと。

 「ごんぎつね」など南吉作品に親しんでいる方もそうでない方も、作品と南吉の人生について深く味わってもらおうとこの企画展ではいくつかの楽しい仕掛けをしています。
 「てぶくろをかいに」や「おじいさんのランプ」など14点の作品について、安城在住の画家野村郁夫氏に美しく繊細な絵を描いていただきました。その中にはあまり知られていない「アブジのくに」、「塀」という作品もあります。展示から南吉の豊かな情感を絵とともに味わえると思います。


 2階のギャラリー展示では、かすや昌宏氏の幻想的な「ごんぎつね」の絵本展がみなさんをお招きします。また「南吉 童話の森」には壁面いっぱいに野村さんの絵が展示され、入ってきた人を童話の世界にさそいます。ここでは南吉の絵本や童話を読んだり、童話を視聴したり、ぬり絵をかいたりして、お子さまもお楽しみいただけます。

 7月18日展示オープンのギャラリートークはじめ、22日の山本英夫さん(新美南吉記念館第4代館長)の講演、29日には朗読会、8月19日には「作って鳴らそう貝殻笛」のワークショップなどお楽しみいただけます。詳しくはHPでご覧ください。ピースあいち夏の特別展は、お子さまをはじめ多くの方の観覧をお待ちしています。