高山孝子さんの戦争体験を聞いて
扶桑町在住・まがたさん友人  山口 左知男

                                           
 

 1月24日、ピースあいちで高山孝子さんが来館中の中学生を前に戦争体験を語る機会にお話を聞くことができました。高山さんのお話からいろいろな学びをいただきました。

 

 一つ目は、コロナ、ウクライナ問題以後、子どもたちのお話の受けとめ方が変わったという点です。多くの方々の亡くなる様を目の当たりにしたこと、特にウクライナの問題では、戦争の生々しい映像を見る機会が多いということが関わっているのかと思います。生命の尊さを切実なものとして実感するようになったのではではないかと感じました。一緒にお話を聞いた中学生たちの様子も真剣そのもの。一つひとつ頷きながら聞いていました。

 

 二つ目は、戦後の日本の復興の問題です。よその国の戦争により復興したことが辛いと言われる高山さんの言葉には強く考えさせられました。「戦後は戦争中よりもモノがなく、朝鮮戦争によってやっと生活がまともに暮らせるようになった」、私も子どもたちに授業でそう教えてきました。
 しかし、それは事実だけでした。高山さんの優しさに心打たれるとともに、お腹いっぱいごはんが食べられなかったことが一番つらかったという体験がそういうことにも目を向けさせてくれるのかとも思いました。日本がドイツと違い一部の国以外に賠償金を払っていないことなども含め、日本の復興が他国の善意や犠牲の上に成り立っていることにもしっかり目を向けなければいけないという思いを強くしました。戦争責任という問題が曖昧になっていく日本の現状が重なりました。やはり日本人は、朝鮮の人々、アジアの人々に対する意識を変えるべきだということを再認識しました。

 

 三つ目は、建物疎開のことです。お話の後で質問もさせていただきましたが、私は不勉強で、建物疎開についてはほとんど何も知りませんでした。お話の中で学んだことをもとに、帰宅後少し調べてみました。その中で問題の大きさが少しずつ分かってきました。

 

 建物疎開は、広島平和記念資料館によると、「空襲による火災が広がるのを防ぐためあらかじめ建物を取り壊して空地をつくること」とされています。1937年4月に成立した防空法にもとづいたものでした。防空法は「空襲による被害を防ぎ軽減するための法律」でしたが、戦局が悪化する中で、建物疎開は適切な手続きがふまれることなく、軍や警察の命令によって強制的に行われるようになっていきました。一般補償金385円、移転費250円で全国で約61万戸が立ち退きを強いられたということです。これは空襲による焼失戸数の4分の1に匹敵します。
 太平洋戦争開戦前後から、この「建物疎開」は恐ろしい方向に進んでいきます。開戦前日に防空法が一方的に「改正」され、空襲時の「退去の禁止」「消火義務」を怠れば「懲役、罰金刑」が定められました。学童以外の人の「疎開」は禁止され、命を投げ出して持ち場を守る、死んでもバケツをはなさないなど、避難禁止と命をかけての消火義務が徹底されていきます。軍部はそれまでに中国を空襲してその被害の大きさはよく分かっているはずなのに、そういう信じられないことを言っているのです。
 原爆投下の日の広島でも市の中心部で大規模にこの作業が行われていて、4万人近くの人が屋外での作業で被爆されたそうです。この作業に加わっていた中学生・女学生など、6000人近くの子どもが亡くなったそうです。建物疎開に関する資料は多くが焼失しており、全国的にも少なく、住民への命令書など見つかったのも最近のようです。建物疎開の実態からも、国家が国民の財産や生命を守らず、自分たちの「国益」だけを守ることが明らかになり、日本の今につながる体質がよく分かりました。

展覧会場の様子1

体験談を語り終えた高山さん(左)とまがたさんと筆者(右)

 

 大学時代の仲間に誘われ、企画の意味もよく理解せぬままピースあいちを訪れた私でしたが、大きなものを頂いて帰ることができました。友人間賀田さんの苦労や配慮のこめられた素晴らしい紙芝居絵の数々にもじかにふれることができ、充実の1日でした。