名古屋と広島の架け橋へ
ボランティア  藤田 真悠子



                                           
 

 私は、高校時代から、ピースあいちでボランティアをさせていただいている大学2年生です。現在は、核問題や平和学等を学ぶため、また平和活動に携わるために広島の大学に通っています。「名古屋と広島を繋ぐ平和活動」を目的として、ピースあいちや名古屋空襲のことを広島の方々にお伝えする活動等を主に行っています。広島では、名古屋のことはほとんど知られていないため、この活動にはとても意義を感じています。

展覧会場の様子1

夏休みに帰省して、ボランティアに来てくれた筆者

 

  私が広島に行き、実感したことは、平和教育の格差です。広島では、小学生の頃から被爆者の方々の証言を拝聴したり、平和学習に取り組む機会が当たり前のように設けられています。それに対して、その他の地域では、平和教育はほとんど行われておらず、原爆の日や終戦の日を答えることができないケースも多く見られます。
  また修学旅行等で広島や長崎を訪れることもなければ、平和について学校で考える機会はないといえるでしょう。私の母校の修学旅行先も広島や長崎ではありませんでした。それゆえ、戦争や核兵器についての知見を深める機会にはほとんど恵まれませんでした。
原爆や戦争は、「遠い歴史の中の出来事」「他人事」という認識がこの地域の私たち若い世代の中にあるように私には思われますが、核兵器使用のリスクが高まる現在の世界情勢の中、このような認識は通用しないのではないでしょうか。核兵器や戦争が存在する以上、誰しもその当事者になり得るのですから。

  この名古屋市は、東京大空襲のようには取り上げられないものの、空襲により甚大な被害を受けた土地です。栄や名古屋城、熱田や八事をはじめ多くの街が焦土と化し、川は熱に耐えかねた人々で溢れかえりました。現在の賑やかで明るい街からは、想像がつかないように感じますが、現在の私たちが友人や家族と食事や買い物、会話等を楽しむ場所は、かつて悲鳴と恐怖で埋め尽くされた場所でもあるのです。
 このことを踏まえて、この街を見てみると、以前とは違う思いを持つことができるのではないでしょうか。私は、言葉では言い表せないくらい、名古屋の街が大好きです。また、幼い頃からの大切な思い出が詰まっており、守りたい街でもあります。広島と名古屋を行き来するようになり、名古屋の街の復興と広島の街の復興には、共通して人々の平和を愛する心と街への深い愛情があると考えるようになりました。場所は違えど、共通する思いはあると思います。

 

 私は、広島では、「ノーモア・ヒバクシャ継承センター」所で活動をしており、月に一度開かれる例会にて、作成したレポート等を発表しています。7月の例会では、被爆による放射線の影響について取り上げ、参加した同じスタッフの方々に、遺伝的影響等について再度考えていただきました。
 放射線被爆による半致死線量は、3から5シーベルトですが、爆心地から1キロの屋外で被爆した人は、ガンマ線のみでも4.22シーベルトの放射線量に達したといいます。このことから、いかに放射線被爆が深刻なものであったかが窺えるのではないでしょうか。数値等に注目し放射線被爆を考え、より深く追及していくことは、当事者的に問題を捉えるための一つの手段であると私は考えています。

 例えば、自身が健康上や仕事上といった様々な場面で懸念していることや疑問に思っていることをインターネットや書籍で調べるという行為は、それらの問題に対しての当事者的意識を持ったアクションであるといえます。被爆や戦争という問題に関心を持ち、調べていくことも当事者的意識を持ったアクションです。
 私は、広島で活動を始めてから、この意識を持つことの重要性をそれまで以上に強く感じており、同時に一人でも多くの方にこの意識を持っていただきたいと思っています。

 

 少し余談ですが、8月の上旬に、広島の大学の友人が名古屋へ観光に訪れたので観光案内をしました。名古屋グルメを堪能してもらい、大須商店街等を案内しました。戦時下の名古屋の話や、街の魅力を話しながら街めぐりをしました。最後にミッドランドスクエアのスカイプロムナードを案内したのですが、私自身も最上階まで登ったのは初めてで、街全体を見渡すとても感慨深い気持ちになりました。
 素敵な景色が見渡せるというのも平和である証拠です。その景色を見て、私は、この街を愛おしく思い、平和を守りたいという感情が強くなりました。そして、名古屋と広島の架け橋となれるよう、平和活動に懸命に励んでいこうと改めて思いました。