2022年夏の戦争体験語りシリーズから

                                           
 

 「2022年夏の戦争体験語りシリーズ」が8月2日(火)から15日(月)まで計11回開催され、ピースあいちの語り手、語り継ぎ手が日替わりでお話ししました。オンライン配信も3回行いました。そのお話をピースあいちのボランティアが報告します。
 また、「愛知・名古屋戦争に関する資料館 戦争体験を聴く会」など、各地での催しに語り手、語り継ぎ手が参加し、お話ししました。



8月2日(火) 「7歳の空襲体験」澄谷 三八子さん 84歳 (語り手の会)

展覧会場の様子1

澄谷 三八子さん

 1945年5月17日の夜、母親は2歳の弟を背中におぶって、当時7歳の私と5歳の弟の手を引き、11歳の兄と近くの熱田神宮へ向かいました。内田橋は真ん中で落ちていたので、崖の下に降りて船に乗せてもらいました。次から次へと焼夷弾が落ちて、火が迫って来るなか、なんとか向こう岸へ辿り着いたが、その先には行くことはできませんでした。煙で目は痛く鼻は詰まり喉はヒリヒリ、一晩飲まず食わすでトボトボと堤防沿いにおおぜいの人と歩いて引き返すと、家は焼かれ辺り一面焼け野原。翌日、高蔵(名古屋陸軍造兵廠)から戻った父親と伯母の家へ向かう途中、知らない家の人がくれた小さなおにぎりが嬉しくて、幼心に「こんな人が世の中にいるんだ」と思いました。 (橋爪 記)


8月3日(水) 「勤労動員・空襲体験」 筧 久江さん 90歳 (語り手の会)

 
展覧会場の様子1

筧 久江さん

 1944(昭和20)年に名古屋市立第三高等女学校に入学し、勤労動員先の三菱電機で戦闘機のライト部分の配電盤を作っていました。その軍需工場が爆撃されたため、名古屋市東区東片端にあった学校が工場になり、そこで働いていました。校庭に防空壕がつくられていたため、「安全」という感じがしました。一つの防空壕に50人以上の生徒が入っていました。1945年1月23日午後の空襲の時、防空壕に入っていると、突然「ドカーン」という音。外に出ると大穴ができていました。その時の空襲で1・2年生の42名が亡くなりました。
 「戦争中は治安維持法、教育勅語等で、基本的人権なんて知らなかったし、わからなかった。勉強する時期にさせないなら、もう終わりで、何事があろうともいかん」。 (吉岡 記)


8月4日(木) 「空襲・学童疎開体験」 佐藤 誠治さん 88歳 (語り手の会)

展覧会場の様子1

佐藤 誠治さん

 国民学校5年生の時に、浜松市の八幡町から8キロ離れた母親の実家である積志町へ縁故疎開しました。防空頭巾をかぶって登校し、手旗信号を習ったり、校庭ではさつまいも作りをしました。ドレミファなどの…英語を使うことは一切ならぬ。「月、月、火、水、木、金、金」の歌ばかり歌っていました。B29の焼夷弾攻撃はすさまじく、火が花火のように降ってきました。多くが木造建築のため全部焼けてしまった。空襲警報が鳴ると、家の床の下に掘った防空壕に入ったのです。火傷をした人の腕の皮がむけた真っ白い肌を、今でも忘れられない。昭和20年8月15日に天皇陛下のお言葉があり、「戦争が終わった」と心の底から喜びました。戦争はダメです。平和は良いものですね。 (小田 記)


8月5日(金) 「空襲・疎開体験と戦後の暮らし」 小笠原 淳子さん 90歳 (語り手の会)

展覧会場の様子1

小笠原 淳子さん

 昭和19年6月、「学童疎開推進要綱」に基づいて国民学校の3年生から6年生までの子どもたちの都会から田舎への集団疎開が始まりました。6年生だった私は8月に先生や級友と疎開しました。勤労動員で生徒がいなくなった女学校の校舎が私たちの生活の場。とにかくひもじかったですね。持って行ったお手玉の豆を取り出し空き缶で炒って食べたり、煉り歯磨きを舐めたり…。生の銀杏を食べて下級生が亡くなりました。20年3月、国民学校卒業のため、大喜びで神戸の家にかえりました。全国の6年生が疎開から都市に帰るのを狙ったように、東京、名古屋、大阪、神戸などの大都市に焼夷弾が降り注ぎました。4月に女学校へ進学したが学業はなく、工場へ勤労動員。8月15日の終戦はよくわからなかったが、「ああ、もう空襲がないんだ」と、ほっとしたのを覚えている。 (林 記)


8月6日(土) 「私のヒロシマ」 佐々木 陽子さん (語り継ぎ手の会)

展覧会場の様子1

佐々木 陽子さん

 佐々木さんは、広島出身で、平和教育を受けてきました。当時、国民学校の校長をしていた父方の祖父は、学校に運ばれる負傷者の対応に追われました。軍医だった母方の祖父は、原爆投下後、生き残ったものの、救護活動のさなか倒れてしまう。8月30日午前0時40分。祖母に見守られながら、亡くなりました。
  佐々木さんにとって、祖母は穏やかな印象でした。しかし、その反面、計り知れない辛く悲しい想いもあったのです。それが分かったのは、祖母が残していた手帳でした。そこには、祖父が倒れてから亡くなるまでの様子、祖母の想いが綴られていました。手帳に綴られた文字から伝わる悲痛な想い…。
 『安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから』。この思いを全ての方々に伝えていきたいと、佐々木さんはお話を締めくくりました。 (辻井 記)


8月9日(火) 「きのこ雲の下で起こったこと――家族の長崎被爆体験」 中上 寧さん (語り継ぎ手の会)   

展覧会場の様子1

中上 寧さん

 中上さんのお話は、爆心地から被爆した家族までの距離を「よもぎ台(ピースあいち)から名古屋駅まで」など名古屋市内の場所と距離に対比しつつ、長崎言葉と地図を多用する臨場感に富むものでした。
叔母の話:原爆破裂後、爆風は強烈で体がフワッと浮いた感じになった。気づくと全て破壊されて文字通り焼け野原になっていた。
祖母の話:勤務地の高島から長崎まで40㎝も積もった瓦礫の上を歩いて家へ向かった。途中で見たおびただしい数の黒焦げ死体が強く印象に残る。祖父、伯母、母が家族を探しに出かけ全員が入市被爆した。
叔父の話:体に刺さっていたガラス片が何年か後に体表にプツプツと出てきた。
祖父の話:黒い雨は長崎にも降った。
中上さん:「政治に関心を持ってほしい」。 (桑原 記) 


8月10日(水) 「学童疎開」 木下 信三さん 87歳 (語り手の会)   

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木下 信三さん

 木下さんは国民学校5年生の時に、千種国民学校から岐阜県恵那郡田瀬に集団疎開し、公民館で日常生活を送りました。大広間にむしろを敷いて、1人あたり1m四方のスペースが与えられ、80人程の児童が同じ空間で生活。その生活はとてもつらいもので、食べ物がなくいつも空腹でした。雑炊には、本来は家畜の飼料である豆かす(大豆油を搾った後の残りかす)が入っていました。ノミやシラミ、南京虫にも悩まされ、毎朝起きるとまずノミ取りをしました。みんなホームシックになり、電車を見て泣いている子もいました。7か月間の疎開生活の中で両親と面会できたのは1度だけでした。3年生だった妹も一緒に疎開しましたが、宿舎は別々でした。もともと体が弱いところに栄養失調が重なり、疎開先では下痢を繰り返していましたが、何もしてやれませんでした。終戦後の8月末に亡くなりました。木下さんが名古屋に帰ることができたのは終戦の年の11月でした。 (中西 記)


8月11日(木) 「名古屋空襲体験」 森下 規矩夫さん 84歳 (語り手の会)   

展覧会場の様子1

森下 規矩夫さん

 名古屋は三菱重工業始め航空機産業の拠点でした。私は、今のバンテリンドームの近くで生まれたが、すぐ近くに三菱の工場があり、ひときわ空襲が激しかった。B29は美しく焼夷弾は花火のようにキレイだった。が、私の家も焼け、名古屋のまちは焼け野原となった。生活物資は配給制となり、それも充分届くことはなかった。特に食料のないことはつらかった。ひもじかった。苦しかった。戦争何も生み出さない。憎しみと虚しさだけが残る。今の世の中、軍備増強や憲法改正など戦争に向かっているのではないか。主権は国民にある。国民の多くが戦争をさせないと言えば戦争はあり得ない。それが国民主権の考え方。みなさんもよく考えて行動してほしい。今こそ日本の民主主義の成熟度が問われている。 (長谷川 記)


8月12日(金) 「勤労動員・空襲体験」 望月 菊枝さん 92歳 (語り手の会)    

展覧会場の様子1

望月 菊枝さん

 女学校2年生の時でした。戦局は悪化し働き手は軍隊に行き、学生が工場に行ったり、稲刈り、電車の運転手などの働き手になりました。私たちは三菱工場で仕事をするようになりましたが、空襲が激しくなり危険なので、学校に工場ができ、そこで仕事をしていました。運動場に防空壕がありました。その日、1月23日、3回目の空襲警報と同時に大音響があがり、防空壕が崩れ42名が爆死しました。遺体は、夜中にそれぞれ家に運ばれました。死者の出たことを世間に知らせない軍の命令でした。その頃、東南海地震、三河大地震がありましたが被害は知らされず、戦後初めて知りました。大本営発表に踊らされていました。
 朝、元気に送り出した我が子が夕に無残な姿で戻ってくる。こんな理不尽なことが起こるのが戦争です。今ある平和をかみしめ、平和を祈念します。平和を持続してゆきたい。平和は宝です。 (臼井 記)


8月13日(土) 「従軍看護婦の戦争体験」 岡田 彩花さん (語り継ぎ手の会)    

展覧会場の様子1

岡田 彩花さん

 語り継ぎボランティアの岡田さんは、従軍看護婦だった杉本初枝さんの手記や話をもとに、横須賀海軍病院や病院船、高砂丸での経験を紹介しました。
 派遣された海軍病院は、全身大やけどや、腕や足に怪我のある患者が多く運ばれてきました。冬の海に放り出され、熱を出した患者のため徹夜で氷を運び治療したこともあったという。
 岡田さんは、「人を救いたいという杉本さんたちの純粋な気持ちを、戦争は歪んだ形でかなえたのだと思う。語り継ぎは、戦争や平和に関わる方法の一つです。過去の体験者の経験を知り、伝えることが平和につながっていくことであり、縦だけでなく横に伝えることが語り継ぎの本意である」とお話されました。
 映像の中の杉本初枝さんが、「いつまでも平和でありたいと思います」と、自身の経験をふまえ強く訴えていました。今の日本、そして世界は平和なのか、最後の問いかけに自信をもって答えられるのだろうか。 (宝蔵寺 記)


8月15日(月)「斎藤孝さんの戦争--スカートの白線が目にしみる」 近藤 世津子さん(語り継ぎ手の会)   

展覧会場の様子1

近藤 世津子さん

 戦争体験を次の世代に伝える活動に取り組むことを思い、斎藤孝さん(名古屋市生1924~2020)の戦争体験の語り継ぎを始めました。
 1944年、中学2年になると、「英語」の授業がなくなり、「軍事教練」の授業が始まり、小銃を扱う授業がありました。9月になると授業はなくなり、軍需工場で爆撃機の脚の生産に従事。翌年5月の空襲で自宅に焼夷弾が一発落ちました。5月半ばから清州飛行場に動員され、基地司令部の防空壕を造り、そこで終戦の日を迎えました。翌8月16日,焼け跡を歩いていた女学生はもんぺ姿ではなく、セーラー服。スカートの縦に入った白線が目にしみるほどでした。
 斎藤さんはいつもお話の最後に子どもたちに、「今日聞いたことを家族に話してほしい,その時自分の感想を述べてほしい。それが平和活動だよ」と語られていました。 (吉岡 記)




7月・8月の来館団体の方や各地での「語り」「語り継ぎ」活動
7月20日(水)/佐々木陽子さん(語り継ぎ) 「私のヒロシマ」 (ピースあいち)
7月29日(木)/丸山泰子さん 紙芝居で語る戦争 (ピースあいち)
7月30日(土)/松下哲子さん 満州からの引揚体験 ピースあいち)
8月1日(月)/八神 邦子さん「学童疎開体験」(愛知・名古屋戦争に関する資料館)
8月7日(日) /橋本 克巳さん 「満州開拓団,引揚体験」(日進市平和のつどい)
8月9日(火) /中野 見夫さん 「熱田空襲体験」(愛西市)
8月9日(火) /丸山 泰子さん 「紙芝居で語る戦争」(貴船小学校トワイライト)
8月9日(火) /大山 妙子さん(語り継ぎ)「家族の長崎被爆体験」(愛知・名古屋戦争に関する資料館)
8月14日(日)/井戸 早苗さん 「名古屋空襲、戦後のくらし」(愛知・名古屋戦争に関する資料館)
8月16日(火)/津田 さゑ子さん「中区御園町での空襲体験」(愛知・名古屋戦争に関する資料館)
8月17日(水)/今村 實さん「学童疎開・空襲・三河地震体験」(愛知・名古屋戦争に関する資料館)
8月18日(木)/澁谷 美子さん(語り継ぎ) 「上野三郎さんの戦場体験」(愛知・名古屋戦争に関する資料館)
8月19日(金)/田中 玲子さん(語り継ぎ) 「父の戦争体験、堤茂子さんの熱田空襲」(愛知・名古屋戦争に関する資料館)
8月20日(土)/石川 薫さん「(語り継ぎ) 「名古屋空襲、杉山千佐子さんの体験」(愛知・名古屋戦争に関する資料館)
8月23日(火)/伊藤 真利さん 「紙芝居で語る戦争」(ピースあいち)
8月25日(木)/中川 弘美さん(語り継ぎ) 「母の戦争体験」(ピースあいち)
8月31日(水)/丸山 泰子さん 「紙芝居で語る戦争」(ピースあいち)