常設展示から◆「戦災孤児、浮浪児たち」
ボランティア  桑原 勝美

                                           
 

  2階常設展示室の出口すぐ内側のパネル『戦争は終わったが … 平和の中に残る戦争』にある「戦災孤児、浮浪児たち」について、最近、猪高中学校の生徒さんが「平和新聞」で取り上げてくれた(本年1月)。また、このメルマガで数回紹介されてきた中に、団体で来館された中学生から「この人たちはその後どうなったのですか」との質問があったと記されている。

 近年、作家らが養護施設の資料を足掛かりに数年かけて元浮浪児を探し出し面接調査をして、おおよその全体像を解き明かしてきた。その概要を紹介する。

 

 大空襲など様々な原因で家族と家を失った結果、駅舎や地下道などで雨風を凌ぎ路上をさまよい歩いた孤児は「浮浪児」と呼ばれた(*)。終戦直後から一、二年間、国内の食料生産が極度に落ち込んでいた上、大陸や南方から兵士や民間人が帰国し、未曽有の食糧難に陥った。
 混乱の中に投げ出された児童の権利を守り福祉を保障することは、国が為すべき喫緊の課題の筈であった。

 

 ところが政府の関心は低く、浮浪児は長期にわたって放置された。大人が生きるのに精いっぱいのときとは言え、浮浪児に国から援助の手は差し伸べられなかったのである。
 彼らは生きるためにスリや盗みなどを行い、手に入れた物を食べ物と交換するなどしてでも空腹を満たさざるをえなかった。浮浪児は忌み嫌われ、「不良児」として蔑視されることとなる。それでも何とか自活しようと駅や繁華街で靴磨き、新聞売り、廃品回収などをして必死に頑張る浮浪児がいた。

展覧会場の様子1

  

 終戦の夏から翌年の春にかけて大都会には浮浪児を巻き込む犯罪が急増し、社会が騒然としてきた。この実態に不快感を抱いた連合国軍総司令部(GHQ)から浮浪児対策を強化するよう指令が下ると、厚生省は「浮浪児その他の児童保護等の応急措置実施に関する件」を発令した(46年4月)。国(官憲)は「狩り込み」と称して浮浪児を厄介者としてトラックに載せ、養育院などの収容所へ運んだ。収容施設が満杯のときは山奥に捨てることもあったという。
 この当時、「浮浪児たちを裸にして、鉄格子の檻の中に閉じ込めた」衝撃的な写真が毎日新聞に掲載された(46年7月)。彼らが盗みを働いたりすると捕らえて裸にし、鉄格子のついた部屋に閉じ込める「処理」は、東京の他、大阪や神戸などで広く行われていたという。

 

 狩り込みにより駅周辺や繁華街で捕らえられた浮浪児は、一旦、養育院へ集められた後、健康な者は孤児院(後に養護施設と改名)へ、指名手配されている者は公設の感化院や少年院へ送られた。これらの施設では、浮浪児に対する職員の偏見が強かったばかりか人手不足もあって、施設からの脱走が相次いだ。
 狩り込みと脱走が繰り返されるうちに、施設での生活を受け入れる児童が増えて行き、浮浪児の姿が急速に見えにくくなった。臭いものに蓋をするかのように、浮浪児は国によって社会から隠ぺいされてしまった。 
 少数ではあるが、浮浪児を救済するために民間の篤志家が施設を造り、宿と食べ物を提供した例として「愛児の家」(孤児院)などが知られている。これらの施設では公設施設と違い、浮浪児が施設内の人間愛に包まれており脱走者は少なかったという。

 

 養護施設にいる間に多くの元浮浪児は義務教育を終えていく。中には高校、大学へと進学する者もいた。元浮浪児は多感な子ども時代に「不良児」とのレッテルを貼られたこともあり、就職や結婚、子育てに差し障りがないようにと、自分の素性を隠して生きてきたのである。
 当時の元浮浪児を取り巻く社会を見ると、日本は独立を回復し(52年4月)、朝鮮戦争(50年6月-53年7月)による特需で活力を取り戻し始めた。この時勢に呼応するように、労働に応えられる年齢に達した元浮浪児は、養護施設の仲介などにより商店や事業所などに職を得たり、教師や建築士の資格を得たりして社会へと巣立って行った。やがて結婚し、子育てを成し遂げた人が多い。
 元浮浪児たちは、これからの子どもたちに自分たちのような過酷な体験をさせてはならないとの思いを胸に秘めて、人生の最晩年を穏やかに過ごしている。

 

*当時の厚生省の調べでは、戦災孤児は約123,500人、「朝日年鑑」(48年版)によればそのうち浮浪児の数は推定35,000人、多くが14歳以下の小中学生であった。



  ◇参考文献◇
 金田茉莉『かくされてきた戦争孤児』講談社,2020.
 中村光博『「駅の子」の闘い 戦争孤児たちの埋もれてきた戦後史』幻冬舎新書,2020.
 石井光太『浮浪児1945- 戦争が生んだ子供たち』新潮文庫,2017.