企画展「戦時下の地震―隠された東南海・三河地震」(3月8日~5月6日)によせて
運営委員  金子 力



                                           
展覧会場の様子1
 

 日本列島は世界でも地殻変動の激しい位置にあることはよく知られています。世界の活火山の10%が列島に存在、プレートがぶつかり合う地震の多発地帯です。内陸部には無数の活断層があると言われています。私たちは災害と同居しながら生活をしていると言っても過言ではありません。こうした災害を完全に防ぐことはできなくても、被害を軽減することは可能です。そのためには、正確な情報を公開し、防災対策をしていくことが重要です。
 それは平和な日常社会においてのみ可能なことです。太平洋戦争がはじまった1941年12月8日から日本国内では新聞・ラジオの天気予報は消えてしまいました。また、夜間の灯火管制が始まると、夜間は暗闇となりました。そんな中で、1944年12月7日昭和東南海地震(海溝型)が発生、続けて1945年1月13日には三河地震(内陸直下型)が発生しました。

 東南海地震では被害地域は広範にわたり、1,223人の犠牲者が出ました。特に被害が大きかったのは愛知県、三重県、静岡県でした。三重県では津波による被害が多く出ましたが地震後、尾鷲などの被害状況を撮影した写真は新聞に掲載されることはありませんでした。戦時下では戦意を低下させる報道は許されませんでした。特に愛知県は軍用機生産の中心であったため厳しい報道規制が敷かれ一般の国民は地震被害の詳細を知ることができませんでした。
 愛知県の被害は名古屋南部と半田の埋立地など軟弱地盤に建てられた軍需工場に集中しています。工場の倒壊で勤労動員中の学徒の犠牲が多く出ました。静岡では家屋倒壊の被害が出ました。地震直後に東京から研究者がかけつけていますが、自由に現地調査を行うことや公表することは許されませんでした。

 東南海地震から37日後の1945年1月13日の深夜三河地震が発生しています。被害の大きかったのは蒲郡から安城にかけての西三河の南部地域でした。東南海地震で建物に大きなダメージを受けた直後に震度7の強震が襲いました。冬の午前3時は就寝中で避難する間もなく倒壊した建物の下敷きとなって2,306人の犠牲者が出ました。犠牲者の中には名古屋空襲を避けるために集団学童疎開していた国民学校の児童もいました。

 過去を振り返ることによって、私たちは現在を知り、未来をみとおすことができます。これまでに積み上げられてきた二つの地震の研究と体験についていっしょに学んでいきましょう。