語り手派遣随行スタッフのこぼれ話
運営委員 熊本 亮子

                                           
 

 昨年末12月16日に東海市立名和小学校へ、戦争体験者の語りで八神邦子さんの随行をしました。この稿は授業の様子ではなく、名和小学校と私について書いたものです。

 

 "名和小学校“へ語り手派遣と聞いて、「えっ!!」とリアクションを起こさずにいられませんでした。そこは私の母校。卒業してから何十何年かの間、訪れることはありませんでしたから、この機会に思い出深い、でも記憶の遠くになりつつある小学校へ行ってみたくなり随行役をかって出ました。

 

 事前に経路を確認し(当時の通学路とは違う)、授業開始時刻に間に合うよう計って慎重に準備して当日を迎えました。校門へ向かって坂を上りますと、校庭の二つの学校のシンボルが目に入ってきました。

展覧会場の様子1

名和小学校のくすの木

 その一つは「くすの木」の大木です。学校が開校したおよそ100年前に植樹され、学校と共に歴史を歩んで戦争の時代も生き延び、まさに学校の主。何年か前に元気がなくなってきたので樹木医の指導を受けながら児童たちが保護活動をしたそうです。その甲斐あって今も立派な姿です。小学生の私はこのくすの木に護られて安堵した事がありました。全児童が校庭に並び全体集会の時でした。炎天下で長引いて早く終わらないかと思っていたら、先生が「亮子ちゃん、顔色が悪いからこっちへ来なさい」と、私をくすの木の木陰へ座らせました。みんなが我慢しているのに私一人だけがいいのかな、と思いながらも楽してしまいました。本当は気分が悪いのでも、何でもなかったのです。先生ごめんなさい。くすの木は私の本心を知ってか、両手を広げるように茂った葉は、いっときザワザワと音を立てていました。

 そしてもう一つは「友情の塔」。高さ5メートルあり、周りは花壇になっています。 友情の塔は、昭和34年9月26日、東海地方を襲った伊勢湾台風によって命を失った名和小学校児童25名、上野中学校生徒4名、合計29名の児童生徒の慰霊の塔です。友達を失った悲しみの中、亡くなった子の机に写真と花が供えられるようになりました。さらに、職員室の廊下に「友情の箱」と名付けられた箱が置かれ、子どもたちがお小遣いを出し合って募金を始めました。この「友情の箱」が新聞記事になって大きな反響を呼び、全国の人たちから激励の手紙や寄付金が送られてきました。こうした善意を何とか形に残せないかと、建設が始まり、伊勢湾台風から2年目の昭和36年9月25日に完成しました。
 塔は鉄筋コンクリート造りで木目調になっています。これは貯木場から流れ出して大きな被害を与えた丸太を意味しています。塔の上部の3面にブロンズレリーフがあり、意味があり、台風から母親が子供をかばう姿や、流木と高潮の中で呼び合う親・子の悲惨な状況や、児童と教師が災害を克服して協力し助け合う姿が現されています。
 名和小学校は毎年9月26日に全校児童で「友情の塔の日」を開催します。当時の様子を知る方の話を聞き、災害の恐ろしさ、命の尊さ、友情の大切さを考えているそうです。私が通っているときにもう校庭にあった友情の塔は、現在までそして未来に向けても学び舎の中にあることを、あらためて感慨深く思いました。

展覧会場の様子1展覧会場の様子2