◆第9回寄贈品展 オープニングイベントから
運営委員 安藤 正幸

                                           
 

 第9回寄贈品展“来て見て伝えよう戦争の記憶”が12月7日から始まりました。初日のオープニングイベントには寄贈者3家族の方々に来ていただき、寄贈品の説明やエピソード、さらには貴重な体験談などを話していただきました。

 

 太田さんからの寄贈品は今では見ることのない長さ5mほどの幕、毛皮を使った防寒服が目立ちます。お父さんは終戦直後ソ連軍の捕虜となってモンゴルへ移送されますが、その時経験した栄養失調と凍死の恐怖はたいへんだったと話されました。
 そのモンゴルから持ち帰った水筒が2個あります。一つは亡くなった友人のご家族に渡そうと持ち帰ったものですが未だ渡すことがかないません。またお父さんの兄がフィリピンへの派遣に際し台湾から実家に出した一枚の軍事郵便ハガキがあります。生きて帰れないことを予見しているかのように、母の背中を恋しく思う短歌を書きしるしています。

 

 頑丈なつくりの大きな軍用柳行李は岡田さんから寄贈いただいたもので、中に入っていた薬品、ガーゼ類、白衣・軍服類はとても80年近く前のものとは思えないほど良い保存状態です。お父さんが衛生兵として上海で治療に当たっていた様子が想像できます。

展覧会場の様子1

 

 松崎さんには朝鮮からの引き揚げの様子を記述した遺稿集の説明をしていただきました。母親と姉妹4人で引き揚げ始めたのですが、母親を途中で亡くし子どもたちだけで生死をさまよいながらも38度線を越えて帰還しました。
 その時の体験を帰国後すぐ、忘れないようにとノートに書き留めたものを昨年遺稿集にまとめられました。生きて戻れたのは現地で子どもたちの世話をしてくれた日本人会のお陰だったと話されました。そのような日本人会が現地にあったことに驚くと同時に、生きて戻れて良かったと思わずにはいられません。

 

 遺書類も毎年寄贈されますが、豊田さんの寄贈品に応召に関する準備予定表というものがあります。さらに別の予定表に記入例を記した見本が付属しています。記入項目は今で言うエンディングノートのようです。誰でもが落ち着いて一通り言い残すことを書けるように配慮したもののようです。

 

 女学生の日記には、学徒動員作業中に爆撃を受けて亡くなった同級生のことなどが詳細に綴られています。動員作業についても、女学生が工場のようにビス止めやハンダ付け作業をいっしょけんめい素直に実行している様子が書かれています。

展覧会場の様子1

 

 今回は1939・40年発行の82枚のグラフ写真が展示されています。1939年にはノモンハン事件、日米通商条約廃棄、ドイツがポーランドに侵攻、第二次世界大戦が始まります。1940年には日独伊三国同盟が調印されています。
 写真の中には英国、米国との友好的な一面を報道している二枚があります。そんな写真を見て、当時の日本国民・知識人は外国をどのように認識していたのか、太平洋戦争になぜ突き進んだのか、なぜ止められなかったのかを考えずにはいられません。

 

 また今年は真珠湾攻撃から80年ということで、ピースあいち所蔵の12月8日ハワイ現地新聞および国内新聞資料を展示して報道内容を見てもらうコーナーを設けました。
 開催初日はテレビ局、新聞各紙の取材があり、注目されている感のある、活気あるオープニングとなりました。