2019年夏の戦争体験語りシリーズから

                                           
 

 「2021年戦争体験を聴くシリーズ」が8月1日(日)から15日(日)まで計10回開催され、ピースあいちの語り手・語り継ぎ手の方たちが、日替わりでお話ししました。今年は、会場(ピースあいち)とオンライン配信の二つ。事前に語り手・語り継ぎ手の方と打ち合わせを行い、お話をよりリアルにと画像や動画の準備をお手伝い。当日はZOOM機器操作などにもスタッフが参加しました。お話を、「ピースあいち」のボランティアが報告します。
 ほかにも、「愛知・名古屋戦争に関する資料館戦争体験を聴く会」など、各地での催しに語り手・語り継ぎ手が参加し、お話ししました。



8月1日(日) 「腹話術で伝える父の沖縄戦」(語り継ぎ) 柳川たづ江さん

展覧会場の様子1

柳川たづ江 さん 神奈川からZOOMで。
オンライン配信

 父(日比野勝廣)は19歳の時、志願兵として入隊し、中国に渡る。21歳の時に沖縄に移り、沖縄戦の惨劇を目の当たりにしていくことになる。初めは沖縄戦の激戦地の1つとして知られている嘉数(かかず)高地で20日間戦い、戦況が悪化したため安波茶(あはちゃ)に南下し、そこでも20日間戦う。その際、足と腕に怪我を負う。病院をさまよい南風原(はえばる)に移り、そこで破傷風になり、周りの人に運ばれて糸数アブチラガマに移る。
 戦後も中国(当時は満州)や沖縄戦での辛い記憶が父の心を傷つけ、夢にうなされたり、寝ている時の静けさが嫌でラジオをつけながら寝たりしていた。戦争が終わっても父の中では、戦争はまだ終わっていなかった。戦争は時が経つにつれて消えていくのではなく、人の心を蝕み、生き続けているのだろう。(辻井記)


8月5日(木) 「父親の兵士戦場体験」(語り継ぎ) 青木正雄さん

 
展覧会場の様子1

青木正雄さん 
ピースあいち・オンライン配信

 2013年8月父親の數雄さんの遺品(祈武運長久の日章旗)が手もとに戻ったことをきっかけに、ペリリューの戦いについて調べました。南太平洋のパラオ共和国にある小さな島がペリリュー島。1944年3回目の召集で砲手として優秀な父は特設砲隊に配属。米軍の反撃により3月、33歳で戦死。そこでは「1万人の墓場」とも言われる壮絶な戦いが繰り広げられ、1947年4月に生還した兵士は34人でした。
 米兵が持ち帰った日章旗を、その親族が「遺族のもとへ」と、ホームステイの日本の若者に託し、20年後青木さんのもとに「帰還」。(お父さん!お帰りなさい…)と何度も抱きしめたこの遺品を「あの戦争の悲惨さを見つめ直し、これからの日本を今こそ考えてほしい」という父からの言葉として受け止め、「99歳まで語りは続けます」と、青木さんは強い意志を示されました。(高橋記)


8月6日(金) 「私のヒロシマ」(語り継ぎ) 佐々木陽子さん 

展覧会場の様子1

佐々木陽子さん ピースあいちで

 広島出身で平和教育を受けてきた佐々木さん。しかし、大学(他県)での学友たちの関心の薄さや、逆に海外へ行った折の現地の人のヒロシマの認知度の高さを知ることなどを通じて、広島出身者の責任を感じながら生きてきた。そうしたなか、祖父母らの壮絶な原爆体験を知るに及んで、自分の問題としてヒロシマを語ることができるようになったとのこと。
 国民学校の校長だった父方の祖父は、学校に運び込まれる死者や負傷者の対応に追われ、生き地獄を見ながらの毎日だったという。また、軍医だった母方の祖父は、救護活動のさなか、勤務先で倒れた。それから亡くなるまでの数日間を綴った祖母の看病の日記が、このほど見つかり、佐々木さんによって朗読された。最愛の夫を失った祖母の慟哭が聞こえるようだった。(荻野記)


8月7日(土)「勤労動員・空襲体験」 筧久江さん(89歳) 

展覧会場の様子1

筧久江さん ピースあいちで

 昭和19(1944)年4月に名古屋市立第三高等女学校(現旭丘高校)に入学。しかし、その年の9月には三菱電機へ勤労動員することになり、まともに勉強はできなかった。仕事内容は、戦闘機の灯りの部分を担当していた。
 翌年(1945)の1月23日、学校内に作られた工場で作業中、空襲警報が鳴り防空壕へ避難する。すると、地震よりも酷い凄まじい衝撃音がした。近くに爆弾が落ちたのだと分かった。外に出ると辺りはゴミとホコリで何も見えず、程なくして辺りが見えたが近くに大きな穴があった。この空襲で42名の学友が亡くなった。
 そして、8月15日、終戦の日。玉音放送を聴き、戦争が終わったことを知る。学友と一緒になって泣き、命が助かったと思った。悲惨な戦争は二度としてはいけない。(辻井記)


8月8日(日) 「斎藤孝さんの戦争」(語り継ぎ) 近藤世津子さん  

展覧会場の様子1

近藤世津子さん オンライン配信

 「白線のスカート思う終戦日」
「爆弾の落ちてこぬ空運動会」
 冒頭に斎藤さん作の俳句2句が出された。
 名古屋の斎藤さんの自宅を襲った5月17日の空襲を語る。焼夷弾がシャーシャーと雨のように降って、自宅にも落ち、家族で必死で守った。火の粉が火山の噴火のようにまっ赤だった。
 終戦の日、人々はいろんな反応をしたが、私は「家に帰れる」と思った。3日後に見た女学生の姿はモンペではなく、縦に1本の白線のはいったスカート。その姿が平和と結びついた。
 斎藤さんは子どもたちに語った。「自分で考えてほしい。言われたことをうのみにせず、自分の頭で考えてほしい。これが平和につながる一歩だと思う」と。(東野記)


8月11日(水)「空襲・疎開体験と戦後の暮らし」 小笠原淳子さん(89歳)   

展覧会場の様子1

小笠原淳子さん 
ピースあいち・オンライン配信

 大きな桶を棒で担ぐ2人の少女が、シンプルな線でスケッチされている。「これ、どっちが私?」もうすぐ90歳の小笠原淳子さんが、この画を掲げると、最前列の男子児童たちが、「後ろの子だ!」と反応する。やりとりは続く。「何、運んでいるかわかる?」「水」「食料」「油」「違うの!ウンコやオシッコなの!」小笠原さんは、焼夷弾や防空頭巾の実物も使って、疎開や空襲の体験を、等身大に語りかける。
 オンラインからも質問が。「戦争中に精神を傷つけた子はいた?」。小笠原さんは、少し表情を暗くして、戦後、同級生からの手紙について触れた。疎開当時の周囲の態度を、今も恨んでいるという。「あの頃は、自分の事しか考えていなかったな。」と自省を口にされた。
 終了後も、小笠原さんの周囲には、多くの人が集まっていた。(平岩記)


8月12日(木)「名古屋空襲の体験」 津田さゑ子さん(83歳)   

展覧会場の様子1

津田さゑ子さん 
ピースあいちで

 名古屋のどの小学校にもあった「奉安殿」、「二宮金次郎」の写真から当時の天皇の位置づけ、二宮像からは勤勉・実直・節約の考えを洗脳された(ここで軍歌を一節歌われ)。教育というものは実に大きな力を持つもので、80年近く経っても歌を覚えている。
 3月19日の空襲で我家は焼けた。焼夷弾による爆撃であたり一面焼け野原になり、それまで毅然と振舞っていた父が全てが、無になったことにより虚脱感に襲われるのをみた。
 鶴舞公園にはまるで物のように積み重ねられた死体の山があった。我家は近くに親戚がありそこを頼って生き延びた。人との関わりの大切さを痛感した。皆さんも人との関わりを大切に一回限りの人生、賢く生きていってほしい。(長谷川記)


8月13日(金)「疎開・空襲体験」 乾正男さん(88歳)   

展覧会場の様子1

乾正男さん ピースあいちで

 ヒューっと音が聞こえて爆弾が落ちてきた。その音が聞こえたら私たちは両耳を指でふさいで、両手で目を押さえて地べたに伏せます。爆弾の落ちる気圧の変化で鼓膜が破れたり、目が飛び出さないようにするために、そう教えられていました。爆弾は松坂屋建物の北側に落ち、西側にいた私たちは間一髪助かりました。
 その後目にした、犠牲になった悲惨なたくさんの方の亡骸が強烈に記憶に残りました。そのために戦後、身内の葬儀でも最後のお別れができません。
 若い参加者が多く、いくつも出た質問に丁寧に答えていた乾さんでした。(熊本亮記)


8月14日(土) 「学徒勤労動員の体験」 都築基雄さん(90歳)    

展覧会場の様子1

都築基雄さん ピースあいちで

 1944年、旧制中学の2年生になると、退役軍人による軍事教練が始まりました。銃剣術の訓練では、敵兵の体の中に木銃をねじり込んで突き殺すよう教わりました。
 2学期から、豊川海軍工廠へ勤労動員され、弾丸製造に従事しました。3年生の1945年8月7日、豊川大空襲で東洋一と言われた豊川工廠は壊滅し、親友を失いました。私は、死体処理を命令され、リヤカーで体がバラバラになった遺体を焼き場へ運ぶ途中、防空壕で折り重なって死んでいる女学生達を何回も見ました。その痛ましい姿は、今も目に焼き付いて忘れられません。勤労動員は、8月17日に解除され、9月から授業が再開された時、ようやく平和な暮らしが戻ってきたなぁと感じました。(橋爪記)


8月15日(日) 「名古屋空襲の体験」 森下規矩夫さん(83歳)    

展覧会場の様子1

森下規矩夫さん オンライン配信

 1937年名古屋市茶屋ヶ坂に生まれる。
 1944年12月13日に三菱発動機工場への空襲があり、防空壕へ避難するが、近くで爆弾の炸裂音が鳴り響き怖くて震えが止まらなかった。炸裂音は、まるで、近くに落ちた雷の音のようだった。この空襲により、家が焼失したため、伯母の家に避難する。
 1945年3月19日に夜間爆撃。防空壕に避難するが、爆撃が激しくなり、郊外に逃げる。しかし、いつの間にか家族とはぐれ、気づいたら自分一人だけ田圃にいた。周りは火柱が上がっていたが幸いにも助かった。家族とも再会できた。
 その後、三重県鈴鹿市に縁故疎開する。そして、8月15日終戦。天皇のため、お国のためにと緊張感をもっていたものから解放された。この戦争によって苦しみと悲しみが残った。(辻井記)




<各地での「語り」>
〇愛知・名古屋戦争に関する資料館戦争体験を聴く会
 7月31日 満州からの引揚 橋本克巳さん
 8月1日 学童疎開 八神邦子さん
 8月2日 岡崎空襲 高山孝子さん
 8月3日 学童疎開 佐藤誠治さん
 8月4日 空襲体験 澄谷三八子さん
 8月9日 長崎被爆体験語り継ぎ 大山妙子さん
 8月10日 空襲体験 中野見夫さん
 8月11日 空襲体験 井戸早苗さん
〇7月31日 緑区戦争体験を語り継ぐ会 満州からの引揚げ 松下哲子さん
〇8月8日  日進平和の集い 祖父と歩むヒロシマ 愛葉由依さん
〇あいち平和のための戦争展
 8月12日 従軍看護婦・杉本初枝さんの戦争体験 原田和果さん
 8月14日 10歳の学童疎開体験 木下信三さん
〇8月10日 貴船小学校トワイライト 絵本で語る戦争と平和 丸山泰子さん
〇8月16日 平和を祈る一日 勤労動員と学校に爆弾が落ちた日 望月菊枝さん