◆学友42名爆死の日の記憶◆1945年1月23日、市三高女(現旭丘高校)に爆弾が落ちた
ピースあいち語り手  望月 菊枝

                                           
 

 寒い日の午後、3回目の警報で防空壕に入りました。しばらくすると空襲警報のサイレンとほぼ同時に大音響。揺れて壕内は回りの土砂がくずれ口、目…などへ砂が入り、出入り口の戸板が開かない。助け出され壕を出たとたん、目の前(2メートルほど先)には直径数メートルの大穴ができ、すり鉢型の穴のところに人の手、足、体の一部が土より出て、近くの垂れた電線には人がたれ下がり、学校の向こうの民家はくずれて、出火も見られ、空襲前とは全く別世界になっていました。壕を出た私たちは誘導され、全員揃うまで待ちました。
 私は、壕から出て目の前の惨事を見たとこまでは、記憶にありますが、その先はいまだに記憶が抜けて落ちています。

展覧会場の様子1

防空頭巾をかぶり体験を語る望月さん

  

 後日知った先生方の記録には次のように記されていました。
 「その間も先生方、警防団の方々は校舎の扉やザラ板を担架代わりに救助、けがをした人は近くの病院へ、亡くなった方は隣の小学校の講堂へ安置、救助の間も敵機襲来あり、雪もちらつき寒い。亡くなって名前のわかった生徒は簡単な箱に安置されトラックで自宅に運ばれました。それは夜中の作業でした。それは死者の出た事を世間に知らせない軍の命令でした。講堂では先生方や上級生の方々とで、亡くなった生徒たちの泥だらけの顔、体をきれいに拭き、体の無くなった部分や、けがの所は包帯で隠し、服装を整えました。3日後に最後の一人が大穴の3メートル下の土中から見つかりました。先生方の手で、目、鼻…につまった血染めの土を取り除き、脛(すね)の骨が出ている所は包帯を巻きました。手袋をはめたままの手は固く凍って握られていて、体全体も凍りつき、ハサミで衣類を切りはがし、お湯で体を拭き、母上の持ってこられた着物を着せたら美しい少女の姿になられ、母上はその時我に返って泣き崩れられました。」

展覧会場の様子1

企画展「少女たちの戦争」
「学校に爆弾が落ちた日」の展示コーナー

 

 その夜、点呼後帰宅を許された私は、数キロメートル歩いて帰る途中家の近くで、事件を知りスコップを担いで学校へ向かう父に会い「オー助かったか!!」の声。この喜びのような安堵の声は今なお私の耳に残っています。
 亡くなった友が今、生きていたなら、好きなことを楽しみ、あるいはひ孫を抱く笑顔があったことと思います。また、親の立場からはまだ幼な顔の残る娘を、朝手を振って送り出したのに夕べには見るに堪えない姿で帰る、こんな理不尽なことがあっていいのか?と。これが戦争なのです。戦争とはいかに悲惨で残酷なものか、深い悲しみと憤りを感じます。今ある幸せをかみしめ、いつまでも平和であることを祈念します。
 若い方たち、絶対に戦争をしないで。“武器を持たない、戦争をしない日本”を誇りとする日本人に育ってください。平和とは人のみならず、他の生物にも大切な宝であることを忘れないでください。伝え続けることは大切です。みんなに伝え継いでください。