◆企画展「戦争とスポーツ」から
運営委員 河原忠弘

                                           
 

4月から5月に開催された企画展「戦争とスポーツ」では、コロナ禍中にもかかわらず、熱心な参観者が続いた。私は展示の企画・準備には参加しなかったが、期待していたものであり、その成果を喜び、関係者のご努力に敬服した。そうした中にあって、驚いたこと、しかもピースあいちの他の展示にも関係する事実を発見した。以下でその概要を記してご参考に供します。
 展示の中に、「最後の早慶戦」があり、早稲田の戸塚球場での両校野球部員の大きな記念写真が展示されていた。だがその説明には、姓が書かれているが名は付されていない。一列目には「阪井」二列目には「平井」とあった。1943年のセピア色の写真である。

展覧会場の様子1

早慶戦のパネル

 私の認識では、慶應の捕手で主将の阪井盛一が壮行試合を着想して野球部長の平井新を動かし、渋る早稲田側に熱心に働きかけた。阪井は、当NPO理事の阪井芳貴さんの伯父と聞いている。私は平井の「フランス社会主義思潮」の講義を聴いたことがある。写真の平井は、蝶ネクタイをした、記憶していた風貌のままで、大変懐かしいものであった。フランス社会主義〈サン・シモン、フ―リエ、組合主義など)は、K.マルクスに先行する社会主義で、平井の研究は高く評価されていたようだ。そして平井の門下には白井厚さんがいて、イギリスの社会主義者、W.ゴドウインなどの研究家として知られる。また一方で、横浜の「日吉台地下壕=帝国海軍連合艦隊司令部等跡」の保存のほか、「慶應義塾と太平洋戦争」を監修する等、戦争の記録・記憶の保存に尽力している。その白井の門下には、上原良司の研究家である亀岡敦子さんがいる。彼女には2014年、ピースあいちの「戦争と若者」展の構成では骨を折ってもらい、講演もして頂いた。以上の経緯を私はボンヤリと個別的に捉えていた。

展覧会場の様子1

「あたらしい憲法のはなし」のパネル

 そして今回、記念写真の平井の右にいるのは「浅井」と記されているのに気づき、閃くモノものがあった。2階の常設展示の出口近くに、「あたらしい憲法のはなし」がある。この冊子は、文部省がだした「日本国憲法」の解説書であり、冊子に著者名が記されていないが浅井清が監修したものであることは知られていた。野球戦の記念写真の「浅井」は「あたらしい憲法のはなし」の浅井清ではないか、と連想した。つまり、2階の展示と3階の展示が連絡しているとの推測である。
 そこで、浅井清の映像をネットで探して、今回の展示の写真と比較した。似ているが確信が得られない。何人かに見てもらったが、写真が古くて判然としない。そこで、慶應の野球部の歴史をネットでたどった。平井が野球部長であったことは以前から知っていたが、浅井が野球に関係し、平井に前後して野球部長になっていたことを、はじめて知り、「閃き」が「確信」となった。それでは浅井清はいかなる人か。天皇機関説を論じた法学者であったことが判った。また初代人事院総裁として知られていたが、野球に関係していることは、一般に知られていない。また、天皇機関説は、美濃部達吉の専売特許のように思っていたが、何人かの学者が、同様の主張をしということも初めて知った。
 これらを通して、学問的で良心的な主張をし、反戦の気持ちであったろうが、軍部に睨まれ、学徒に「征け」と言わざるを得ない立場で、壮行野球戦を強行した人々の心情を推しはかることができた。浅井の右に立つ背広姿(早稲田の法学部の外岡茂十郎ほか)の方もまた、同じ心情で臨んでいたに違いない。1943年は「学徒出陣」を東条内閣が決定し、「きけわだつみのこえ」に収録された学徒と同じような多くの若者が、命を奪われた。写真の中の早稲田の3選手も還らなかった。

 「あたらしい憲法のはなし」は、教室では1951年に使われなくなり4年間で使用されなくなった。1950年には朝鮮戦争が始まり、日本は特需で潤い、浮かれている間に、「逆コース」と言われる諸施策が進められた。それから半世紀が過ぎ、2006年安倍晋三は「美しい国へ」を発表した。以来15年たったが、その主張が今も政権政党を主導している。そして改憲への布石が進められている。
 展示に登場した人々の、スポーツを求める純粋な心に打たれる一方で、今回の五輪大会は、商業主義に汚されて、コロナウイルスの攻撃にあっても、張り巡らされている商権・利害関係から、中止を決断できない事態になっているのを、見せられている。
 ピースあいちの展示室には、「あたらしい憲法のはなし」が、いまも生き続けている。
(文中、鬼籍に入られた方の尊称は省略しています。お許しください)