空襲の跡を辿って◆企画展「名古屋大空襲―名古屋のまちに爆弾が降ってきたー」
ボランティア 野田 隆稔

                                           
 

ガイドで空襲を語って

 私は小学1年生のとき、名古屋市瑞穂区の工場地域に転居した。焼け野原や空襲の傷跡が至る所に残っていた。空地で鉄屑を拾って、売って小遣いにしたり、オンリーの女性宅に来る米兵に「ギブミーチョコレート・ガム」と叫んだりした戦後の忘れがたい負の記憶がある。

 焼け跡を見ながら、いつか空襲のことを調べたいと思っていた。退職して、「ピースあいち」のボランティアになり、戦跡研究班があることを知り、そこで勉強をしだした。これはガイドにも役立った。
 まず、どこの地域の学校がくるかによって、前もってその地の戦争被害を調べておいて、子どもたちに「君たちの住んでいる所に空襲があったか」と聞く。あったかなかったは一部の子どもは知っているが、大半の子どもは知らない。

 私はかつて「京都には空襲がなかった」と教えられてきた。しかし、山村美紗さんの本を読んで、京都にも空襲があったことを知り、驚愕したことを覚えている。京都の小学生が修学旅行で来た。そこで、子どもたちに聞いてみた。「京都に空襲があったことを知っているかい」と聞いたら、中に、「知っている」と答えた子どもがいた。「お祖父ちゃんの家のある太秦に落とされたよと、お祖父ちゃんから聞いた」と答えてくれた。しかし、大部分の子どもは知らなかった。住んでいる所が違うので、祖父母から聞いていないのであろう。
 (注 京都には5回空襲があり、死者36名を出した東山区の馬町空襲(京都女子大付近)と太秦空襲、西陣空襲が有名である。)

 犬山から来た小学生も犬山に空襲があったことを知らなかった。旧犬山市街ではなく、羽黒、楽田など周辺地区に落とされたので伝え聞いていないのであろう。
 江南市の布袋から来た小学生は布袋地区と古知野地区に空襲があったことを知っていた。親や祖父母から聞いたし、学校で習ったということであった。『江南市史』には、どこどこの地区でどのような被害が出て、死者が何人出たかが記されており、1945年7月13日の空襲で32名の犠牲者が出ていると書かれている。
 ガイドで子どもたちと話していると、地域の戦争体験者や親、学校で教えていくことが、戦争を伝えることで大切であるということを痛感する。

展覧会場の様子1

展示会場

名古屋市周辺にあった地域の空襲

 名古屋市内の子どもたちもたくさんやって来る。名古屋市内の空襲については、名古屋市焼失区域図や多くの写真、愛知県が受けた主な空襲での犠牲者のグラフ等々が展示されていて、わかるようになっているが、戦時中、名古屋市ではなかった名東、天白、緑、守山区については触れられていない。
 それらの区については調べて空襲展で展示した。

 私は天白の住民(移住民)なので、天白区の戦争遺跡を調べて、地域の9条の会で発表したり、史跡巡りをしたりしていた。しかし、空襲については無知であったので、『天白村誌』で調べてみた。『天白村誌』には1944(昭和19)年12月13日~1945年6月28日までに10回の空襲があったことが記され、どこで、どのような被害があったかが克明に書かれている。一例を挙げてみると「1945年1月24日、八事石坂遊園地から、五社の宮、裏山方面-遊園地の池端の軍需工場への爆撃あり。多大の被害出る。弥生園の女性一人が破片により右腕を失う負傷を負う。裏山の大須宝生院の主張所管理者横井随賢一家5人が全滅」―と、詳細に書かれている。これはすごい記録である。

展覧会場の様子1

天白村の戦死者墓銘碑

 農業センターの横にある針名神社の西側には天白村の明治以後の戦争で亡くなった人々の墓銘碑がある。
 私の子どもは見に連れて行って説明したが、孫たちは知らないので、連れて行こうと思っている。

 名東区にも『猪高村誌』があり、1944年12月13日、1945年3月25日の空襲(死者6名)は東区大幸町にあった三菱発動機を狙った造兵廠の空襲の余波によるもので、6月26日の空襲は千種区にあった造兵廠の余波によるものだと記している。

 守山区は(旧守山市)現在の陸上自衛隊駐屯地に、戦前は歩兵33連隊が置かれており、空襲は多かった。龍泉寺街道は「爆弾街道」と呼ばれたほどである。小幡緑地には高射砲が置かれていた。その跡地ははっきりとわからないといわれている。守山区は調べるほど多くの戦争に関する遺跡や話が出てくるのでは思う。
 緑区は城山三郎さんが書いた『捕虜のいた駅』、それをもとに「ピースあいち」に関わりのある馬場豊さんが書いた『捕虜のいた町』の本で知られる有松捕虜収容所が有名であるが、空襲などの被害は少なかったようだ。

 かつて、戦跡班が名古屋市内の戦争遺跡をまとめようと、班員が14区を担当し、調べたのであるが、途中で立ち消えになってしまった。
 おそらく、担当した各自が資料を持っていると思うので、まとめて1冊の冊子にして、残していくといい。さらに、ガイドをするとき各自がそれぞれの資料を作るので、それも保管していくといいと思う。