企画展「名古屋大空襲―名古屋のまちに爆弾が降ってきた―」によせて
企画展チーム

                                           
 

 

 今年は戦後76年を迎えます。アジア・太平洋戦争末期、日本各地は米軍の空襲をうけ、市民の頭上に「前線」と同じように爆弾が降り注ぎ、おびただしい命が奪われ傷つけられました。私たちが暮らす名古屋の街は63回もの空襲を受け、終戦の1945年8月15日には焼け野原になっていました。延べ2,580機のB-29 から投下された爆弾・焼夷弾は14,500トン。東京に次ぐ多さです。今回の展示は、名古屋市街地への空襲、航空機産業の拠点としてねらわれた名古屋、空襲時「逃げずに火を消せ!」とした『防空法』などこれまでピースあいちが取り上げてきた展示をコンパクトにまとめました。

 
ちらし

 名古屋市に対する本格的空襲は、1944年12月13日の三菱重工業名古屋発動機製作所大幸工場への爆撃から始まりました。米軍のねらいは軍用機の生産を止めること、中でもエンジン工場を破壊することが最優先されていました。続いて12月18日には機体を組み立てている港区大江町の名古屋航空機製作所大江工場が空襲を受けました。米軍はその後も航空機生産工場への執拗な攻撃を繰り返し、徹底的に破壊しました。

 

 3月になると米軍の攻撃目標は、東京、大阪、名古屋、神戸など大都市市街地を焼き払う作戦に変更します。名古屋へは300機規模のB29が2回、5月には500機規模のB29が2回大量の焼夷弾を投下、消火不可能な大火災を発生させ、多数の死傷者が出ました。
 こうした市街地への焼夷弾攻撃に対して日本政府は、防空壕を掘り一時退避すること、バケツリレーで消火することなどを命じました。一方、米軍はプロの消防隊でも手に負えない火災を発生させ都市を丸ごと焼き払っていました。名古屋の都市の機能は麻痺し、軍需工場は空襲のない地方へ疎開し、市民も焼跡をあとに地方へ移らざるを得なくなり、名古屋市内の人口は敗戦時には半分になってしまいました。

 

 今回の展示では、3月10日の東京大空襲の翌々日に米軍が実行した3月12日の名古屋市街地空襲などについて被害の状況や証言を紹介します。また、ピースあいちが過去の企画展の中で調査した、周辺地域(名東区・守山区・天白区)の空襲被害や市内に残る空襲遺跡についても展示しています。

 

 太平洋戦争終結後に占領軍と共に来日したロバート・モージャー氏が、1946年4月から1947年1月にかけて撮影したカラースライドには名古屋城跡を含め市街地の様子が当時は珍しかったカラーで残されています。(これらの写真は国立国会図書館が2017年デジタルコレクションとして公開したものです。)名古屋の焼け跡と復興の様子を見ていきます。