◆常設展示から◆「焼き場の少年」―核兵器禁止条約発効の年に
ボランティア 桑原 勝美

                                           
 
展覧会場の様子1

ピースあいち2階展示室「命の壁」から

 

 「長崎で、原爆で死んだ人たちの遺体を焼く場所。幼子を背負った少年がやってきた。やがて白いマスクをした男たちが背負い紐を解いた。背中の子は死んでいたのだった。やがて幼子は炎の中で音を立てて焼かれた。直立不動で炎を食い入るように見つめていた少年の唇には血がにじみ、下唇は赤く染まっていた。」(撮影した米軍写真家の記録より)
 これは「焼き場の少年」の説明、米軍写真家とは故ジョー・オダネルさんである。彼は終戦後まもなく被爆地長崎を訪れ、被害状況をカメラに収めて回った。その折に入市被爆したのであろうか。被爆の後遺症とみられる脊髄の痛みに苦しみながら、核兵器の非人道性を訴え続けたという。

 広島と長崎の原爆被害状況は残虐極まりなく、筆舌に尽くしがたい。原爆の炸裂により、桁違いに高温の熱線と派生する火事、衝撃波と強烈な爆風、経験したことがない放射線が放出される。
 放射線は人の細胞を遺伝子レベルまで傷つけ、嘔吐、白血球減少、下痢、出血傾向、発熱、脱毛などの症状が出てから死に至る。原爆症にはこれら急性放射線障害の他に、甲状腺機能障害、白血病などの長期的障害があり、被爆してから何年も経て悪性腫瘍ができることがある。広島、長崎両市の原爆犠牲者は1945年内だけで21万人を上回る。

 

 核兵器禁止運動の端緒は原爆に反対する市民運動として開かれ、核兵器の無条件禁止などを訴える署名運動を決議して(1950年3月、ストックホルム・アピール)、5億筆の署名を集めた。
 当時、唯一の戦争被爆国日本は連合国軍総司令部(GHQ)の統治下にあり、原爆に関する情報へのアクセスが統制されていた。1952年4月の講和条約発効(独立回復)後、被爆者団体の核兵器禁止運動ができるようになり、60年以上経った今も続けられている。
 また、1954年3月、ビキニ環礁での水爆実験により新たな犠牲者が出たことをきっかけに、1955年、世界的な原水爆禁止運動が開始され今日に至っている。

 国際連合(1945年設立、国連)は1968年6月、核兵器を保有する国を米国、露国、英国、仏国、中国の5か国に制限し、その他の国の核保有を禁止する核拡散防止条約(NPT、核不拡散条約)を採択した。1970年3月に発効したこの条約は、これら5か国が核を減らす努力義務を定めている(核軍縮)。しかし、核軍縮への努力がはかばかしくないため、その他の国が核兵器を保有する事態(拡散)を招いてしまった。

 

 2017年は記念すべき年となった。長年にわたる核兵器禁止運動が国連で実を結び、7月7日に核兵器禁止条約(核禁条約)が122か国の賛成で採択されたのである。
 この条約は、核兵器が非人道的であるとの認識に立ち、核兵器の開発、実験、製造、備蓄、移譲、使用、威嚇としての使用を禁止する画期的な内容を持つ。国連で核禁条約の成立に向けて中心的に活動した政府や団体の一つが、核兵器廃絶国際キャンペーン(2007年発足、ICAN)である。この年の12月、ICANにノーベル平和賞が授与された。2020年10月24日、核禁条約の発効に必要な批准国数が50か国に達し、90日後の2021年1月22日に発効することになった。

 2017年のもう一つの特記事項は、ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇がジョー・オダネル氏が長崎で撮影した「焼き場の少年」の写真をカードにし「戦争がもたらすもの」とのメッセージを添えて世界の教会関係者へ配布するよう指示したことである。教皇はこの写真を見るなり顔をしかめ、「子どもにこういう顔をさせてはいけない」との思いをにじませたという。2019年11月24日、長崎市の爆心地公園を訪れた教皇は、この写真を世界中に広めるよう呼びかけた。こうして「焼き場の少年」は全世界から注目されるようになった。
 フランシスコ教皇の核兵器廃絶への積極姿勢は、歴代教皇の考え方の流れを汲む。ヨハネ・パウロ2世は1981年に広島で核兵器廃絶を訴えた。フランシスコ教皇が国家元首を務めるバチカン市国は、2017年9月20日、国連で核禁条約の署名・批准手続きが始まった日に、いち早く批准を済ませた。核禁条約は、「核兵器を使うのも造るのも倫理に反する」という教皇の考え方と一致するのである。

 

 核禁条約は核保有国が批准していないなどの課題を残しているが、核兵器廃絶へ向けて大きく前進した確かな証である。「焼き場の少年」に背負われた幼子の命は返らない。「少年」がご存命なら核兵器廃絶運動の進展をどのように評価なさるであろうか。