企画展「戦争の中の子どもたち」に寄せて
碧南市史資料館調査室・調査員 北村 恒

                                           
 

  昭和の時代の男の子の遊びの王様は「めんこ」でした。「めんこ」という子どもの遊び道具を見ると、その時々の時代性がそこに表れています。戦後75周年を迎える本年度、戦争という時代の「前」と「最中」と「後」のめんこを見比べてみると、はっきりとした時代の変化がそこには表れています。

展覧会場の様子1

めんこのパネルと筆者

 

 めんこのルーツは平安時代の遊びである「意銭(いせん・ぜにうち)」と言われ、江戸時代になると「穴一(あないち)」という遊びとなりました。穴一の遊び用に、土を素焼きした「泥めんこ」が作られ、泥めんこを使った穴一遊びは、「めんこ」と呼ばれ、明治の初期まで続きました。
 明治になると、薄い鉛板に様々な形や模様をかたどった「鉛めんこ」が一気に人気となりました。鉛めんこになると、自分のめんこを相手のめんこの上から落として、相手のめんこをひっくり返したら勝ちという、後の紙めんこで一番ポピュラーな「おこし」という遊びが始まります。

展覧会場の様子1

お相撲さんの化粧まわし

展覧会場の様子1

兵士が描かれためんこ

 鉛めんこに代わり、私たちの知っている「紙めんこ」がめんこの主流となったのは明治30年代からです。図柄としては歴史上の武将の他、明治27~28年(1894~1895年)にかけての日清戦争や、明治37~38年(1904~1905年)にかけての日露戦争を通して軍人も子どもたちの英雄となっていき、軍人や戦争のめんこが作られました。
 大正時代になると紙めんこの黄金期を迎えます。武将めんこや軍人のめんこの他、戦前の映画黄金期を迎え、映画や人気俳優を扱っためんこが作られるようになりました。世代を問わず人気のあった相撲の力士や野球選手の人型めんこが登場したのもこの時期でした。

 

 昭和4年(1929年)に日本で初めて「ミッキーマウス」が紹介され、子どもたちの人気を集め、外国や日本の漫画のめんこが作られました。日本人のオリンピックでの活躍などからスポーツ関連のめんこも作られ、日中戦争開戦以前は戦争の影はあまり感じられないめんこがまだ多くありました。

 

 日中戦争の開始以後、戦争が国民の生活に影響を与え始め、子どもたちの人気者も、兵士スタイルに変えられていきます。
 戦時中のめんこの図柄は、当然ながら戦争に関するものが多くなっていきます。戦争が激化すると、元帥や大将などの有名人の肖像から、無名の兵士が戦っている姿や戦闘機などの武器や戦う兵士の図柄などが多くなります。
 子どもたちの生活も戦争の影響を受け、食糧の配給制度をクイズにしためんこや、それまでのめんこになかった「忠義」「節米」「勤勉」「防諜」などの徳目がめんこに書かれるようになりました。戦争での勝利や兵士の武運長久を願い子どもたちが神社に参拝した「少年少女日参団」や軍用機献納運動の「愛国号」のめんこなども作られました。

 

 戦後のめんこは一転し、GHQにより軍国主義的なもの、封建的忠義を連想するものは規制され、チャンバラ映画の制作が禁止され、戦争関係のめんこはもちろんのこと、武者や時代劇の関係のめんこも製造を禁止されました。
 その代わりに、昔話や動物、スポーツの図柄の他、ディズニーのキャラクターやジープなど、アメリカ的なめんこが奨励され、多く作られました。GHQのMPなどもめんこの図柄に登場しました。

 

 昭和26年(1951年)にサンフランシスコ平和条約が締結され、占領下から解放され、昭和27年(1952年)にGHQが解散されると、時代劇も復活し、以前のように時代劇映画や俳優、武将のめんこ作りも再開されました。
 以後、高度経済成長期に入りテレビが普及すると、子どもたちの生活環境も大きく変わり、テレビドラマやアニメの主人公が子どもたちのヒーローとなり、それらのめんこがたくさん作られました。