「もの」が語る言葉を聴く◆企画展「模擬原爆パンプキン-市民が明らかにした原爆投下訓練」によせて
渋井 康弘(名城大学経済学部)

                                           
 
展覧会場の様子

 「ふるさと春日井学」研究フォーラム 『シリーズ ふるさと春日井学 名古屋陸軍造兵工廠鷹来製造所 春日井から見た“まちづくり・大学づくり・ものづくり”』2020年8月 

(1)鷹来製造所のブックレット
 8月14日に『名古屋陸軍造兵廠鷹来製造所』というブックレットを出版しました。ものづくりに定評のある愛知では、戦時中、ものづくりの技術が兵器づくりへと転用され、各地に軍需工場が作られました。ものづくり愛知が兵器づくり愛知となっていたのです。
 そのために愛知は、軍需工場を狙った爆撃を何度も被ることとなりました。愛知が60回以上にも及ぶ空襲にさらされた理由の一つも、ここにあります。名古屋陸軍造兵廠鷹来製造所はそうした軍需工場の一つで、名古屋陸軍造兵廠鳥居松製造所と共に春日井に建設された陸軍の軍需工場でした。約4,000人が働き、そのうち約1,000人は動員学徒であったようです(終戦時)。鳥居松製造所では九九式小銃が、鷹来製造所ではその小銃に込める小銃弾が、主に作られていました。
 戦後、この工場の跡地は私が勤務する名城大学に貸与され、農学部生が学ぶ農場として利用されてきました。今日までに土地が分割され、パナソニック関連工場や浄水場、春日井市総合体育館などが建設されましたが、今なお跡地の6分の1ほどは名城大学附属農場です。動員学徒が爆撃に怯えながら兵器を作っていた同じ土地で、今では平和の中で学びを保証された学生たちが、学業に勤しんでいるのです。
 この鷹来製造所設立から今日までの経緯を、愛知のものづくり、春日井のまちづくりと関連付けながら記したのが、今回出版したブックレットです。私と、このメルマガの編集もされている金子力先生、そして名城大学に40年以上勤務され、大学の施設の成り立ちについても熟知されている大脇肇氏の3人で、共同執筆しました。

展覧会場の様子1

名城大学農場本館
(名城大学ホームページ『名城大学物語』第2部第3回より。2020年8月11日閲覧)

 

(2)模擬原爆パンプキンと鷹来製造所
 戦時中、米軍は長崎型原爆と同形同重量の模擬原爆パンプキン(原爆投下の練習用爆弾)を、日本全国に49発落としました。この事実は、金子先生が共同研究者の工藤先生と1990年代に発見していたのですが、なかなか広く知られることはありませんでした。しかし今年になって、新聞・テレビが競ってこのパンプキン爆弾を報道するようになり、金子先生もあちこちのメディアで発言されています。
 実は鷹来製造所にも、このパンプキン爆弾が一発投下されました。投下されたのは75年前の8月14日です。それらの事実も含め、ピースあいちでは4月から企画展「模擬原爆パンプキン」を開催する予定でした。福島県に投下されたパンプキン爆弾の破片(おそらく現存する破片としては最大のもの)を、それを保管する瑞龍寺からお借りし、展示する予定も組んでありました。しかしながらご存知のコロナ禍で企画展は延期。6月から開館できることになったものの、パンプキン爆弾の破片を瑞龍寺に返却する期限が迫っていました。

 
展覧会場の様子1

パンプキン爆弾レプリカ(ピースあいち所蔵)。
2020年8月6日に渋井が撮影。

 

(3)破片のレプリカ作成
 破片はパンプキンの存在を実感する上で重要なもの。大勢の来館者に観てもらいたいものです。そこで金子先生と渋井が相談の上、愛知中小企業家同友会に仲介して頂き、一宮の鳥越樹脂工業様に破片のレプリカ作成を依頼しました。まず3Dプリンタでレプリカが作成され、さらに同社のネットワークを通じて、複数の企業により塗装や仕上げなどが精密に施され、本物と見分けのつかぬほどそっくりなレプリカが出来上がりました。
 ピースあいちと大学と愛知の優秀なものづくり企業とのコラボによって、瑞龍寺への破片返却後も、ピースあいちではレプリカを展示できることとなりました。

(4)「もの」に語ってもらうために
 戦争体験を語れる世代が少なくなり、記憶の継承が難しくなっています。しかし、語れる人が減っているならば、「もの」に語ってもらうのはどうでしょう。パンプキン爆弾の破片という「もの」を通じて、その背後にある戦争に思いを馳せてもらえるならば、それも記憶の継承の一助となるでしょう。その意味で、破片のレプリカをピースあいちに展示できるようになったことは、大きな意味があったと思います。
 ただし「もの」に語ってもらっても、その語る言葉を聴く耳がなければ、記憶は継承されません。聞き手の側に、その「もの」に関わる歴史的知識、その「もの」と共にいた人々を想う想像力、そしてその「もの」の背景にあった様々な命を知ろうとする意欲がなければ、「もの」が語る言葉は聴こえてきません。それらを持たぬ人には、破片のレプリカはただの汚い鉄くずにしか見えないでしょう。
 「もの」が語る言葉を聴く耳をもつ人――戦後世代がそういう人々でいっぱいになれば、記憶は継承されるはずです。そのために今、私は何をすべきなのか。亡くなった世代から問われているような気がします。