企画展「模擬原爆パンプキン―市民が明らかにした原爆投下訓練」によせて◆大垣に大型爆弾が落とされた日
空襲体験を語りつぐ大垣の会 事務局長 髙木 正一

                                           
 

企画展「模擬原爆パンプキン―市民が明らかにした原爆投下訓練」は、マスコミにも大きく取り上げていただいています。パンプキン爆弾に取り組んでいる各地の方々もご来館くださり、新しい取り組みのお話を聞かせていただくなど、小さな交流もあります。メルマガ4月号よりこの企画展にご協力いただいた方からの投稿をご紹介しています。今回は岐阜県大垣市から。

 太平洋戦争末期、大垣は6回の空襲を受けています。7月24日には大型爆弾(模擬原爆パンプキン)の投下、29日には焼夷弾による、大垣としては一番大きな空襲の被害に遭っています。大垣では、毎年、この一番大きな空襲に近い日曜日に、「空襲体験・戦争体験を語りつぐつどい」を開催しています。今年で32年目を迎えることになりましたが、残念ながら、今年はコロナ禍の中にあり、中止としました。

展覧会場の様子1展覧会場の様子2

(上)爆心地・米軍資料から (下)爆心地・現在の様子

 毎年の「語りつぐつどい」の様子はビデオに記録しており、それを「素材」としながら、別途インタビューも交え、一つの記録として、ビデオ「大垣に大型爆弾が落とされた日」を作成してみました。
 まとめながら気づくことは、それぞれの方の証言をつなぎ合わせると、その時の様子がリアルに掘り起こせるということです。それぞれの人が見たことは、その位置や状況によって違いがあります。爆弾投下、キラリと光る、あるいは渦を巻いて落下してくる、またB29が自分の正面に見える、反転が、被爆地よりも遠方に見える、等々・・・・。実際の飛行経路、投下行動とは異なるかもしれないけれども、それぞれの記憶という、その人にとっての見たまま、感じたままが大事なのではないか、ということです。

 

 パンプキンは、大垣市高砂町地内の水門川の南岸に落とされました。すぐ近くに農協(岐阜県農業会大安支所)があり、建物は木っ端微塵に。職員・関係の方10名、付近の方数名が亡くなりました。その遺体の収容作業にあたった兵士と少年兵、遺体を探しに一時安置の寺まで行かれた方、顔も吹き飛び、爪やベルトで身元を確認し、空襲警報の中でお通夜を営まれた方・・・・。一方、爆心地近くで爆風によって防空壕に投げ込まれ、九死に一生を得た方もあります。

展覧会場の様子1展覧会場の様子2

(上)被爆地跡を示す碑 (下)爆心地跡に立つ慰霊碑

 作成してみたビデオは、事実の記録というよりは、それぞれの記憶を記録したものといった方がいいかもしれません。空襲を知らない世代、ましてやパンプキンを知らない世代、パンプキンは知らなくても原爆は少しは知っている、そういう「若い」世代の方が見て、多少でも何か感じられるところがあれば、と思いながら、作ってみました。

 追記 大垣の空襲について引き続き調べたい、知りたいことはありますが、なかなかたどり着けずにいます。急がないといけないとも思い、もう少しじっくりとも思っています。