◆「戦争体験の語り継ぎ手」ボランティアに参加しませんか
語り継ぎ手研修チーム リーダー 熊本 典生

 

                                          
 

豊川海軍工廠で爆撃にあった母の戦争体験
 昭和5年に愛知県豊橋市に生まれた私の母親は、生前、自身の戦争体験を子どもたちに語ることはほとんどありませんでした。数少ない話の中で記憶に残っているのは、豊川海軍工廠が爆撃を受けた際のことです。
 母親が豊川海軍工廠で具体的にどのような作業をしていたのかわかりませんが、豊橋市の自宅から10キロ余りの道のりを歩いて通ったそうです。ある時、警報が鳴り響き、突然猛烈な空襲が始まり、大勢が工場棟の出入り口方面に向かって殺到する中、母親は逆方向に向かい、高窓から外に飛び降りたと言います。そこから自宅のある豊橋市方面に向かってひたすら走って、走って、走り抜いたそうです。海軍工廠がどのような様子だったとか、友人がどうなったとか、具体的な話を聞いたことはありません。ただ、焼夷弾は、「水をかけたりすると余計にひどく燃える。恐ろしい。」と震えるような声で話していました。これは、その後、豊橋市内が空襲にあった時のことかもしれません。

 
展覧会場の様子1

豊川海軍工廠への爆撃の様子を記すパネル(ピースあいちの常設展から)

 

 母親は、3年前に亡くなりましたが、この話を尋ねたらもっと具体的な様子を話してくれたでしょうか。今ではもう、知りようもありません。
 母親の葬儀の際、何げなくこの話を兄弟にしたところ、兄は母親が工場北側の高窓を破って飛び降りたこと、裸足だったので怪我だらけで帰宅したことなど、かなり具体的な様子を語ってくれました。3歳年上の兄にはそんな話をしたようですが、次男の私と弟にはどうやら聞かせたくなかったようです。
 自分の周りにいた同級生や友達、仕事仲間が次々と飛び散るように消えていく、中には火だるまになって倒れていく、そんな姿を横目に見ながら必死に走った自らの体験を自分の子どもたちに、どのような気持ちで話してくれたのか、かなうことなら一度尋ねてみたかったです。
 「平和を願って、戦争の悲惨さを後世に伝える大切さ」とよく言われますが、そうした体験をくぐり抜けてきた方々がその体験を語ることは、実際には大変難しいことのようです。

展覧会場の様子1

遺された長崎での被爆体験の紙芝居

 

半世紀を経て初めて被爆体験を語る男性

 ピースあいちで自らの戦争体験を話されたある男性は、当時の記憶を紙芝居のような何枚もの絵に仕立て上げていました。画面いっぱいに真っ赤な炎が広がり、両腕を突き出すようにしてさまよう人たちが描かれていました。両腕からは何かが滴り落ちて、みな苦痛にうめき声を挙げているようでした。
 その男性は、長崎市内の大きな工場で被爆した際の体験を紙芝居のようにして話されました。それまで、ご家族にも打ち明けたことがないというではありませんか。ご家族も被爆者であることをこの時に初めて聞かされ、本当に驚いたそうです。
 終戦後の日本で被爆者が生きていくためにしなければならなかったこと、自らのストーリーを隠し通し、故郷から遠く離れた地でひっそりと暮らすこと。ピースあいちのような民設民営の施設ができて、戦争体験を語る試みが始まり、半世紀以上を経てやっと口を開くきっかけができたそうです。
 私は、この男性の話を目の前で聞く機会に恵まれました。身体も心も文字通りガタガタと震え、涙を抑えることができませんでした。このような体験、人生を私たちに包み隠さず、しっかり話していただいたことに改めて敬意を表したいと思います。体験を次の世代に語り継ぐことの責任、大切さの一端を垣間見た貴重な体験でした。

体験者の想いを受けとめ次の世代に伝える―今に生きる私たちの生きた言葉で
 ピースあいちには、このような貴重な体験の記憶や記録がDVDや書簡など様々な形で残されています。体験者本人のようにその記憶、傷跡を他の者がたどること、語ることには大きな責任が伴います。
 その書かれた言葉や絞り出すように語る肉声の数々に込められた願いを受け止め、次の世代に伝えられるのは、今に生きる私たちの生きた言葉でなければならないと考えています。
 語り継ぎ手に必要なものは、体験者の方々への敬意と平和を願う強い思いです。ピースあいちで一緒に語り継ぎ手ボランティアとして活動してみませんか。