◆名古屋にも落とされた模擬原爆
加藤 良治(元名古屋市生涯学習センター職員) 

                                           
 

ピースあいちが臨時休館になり、4月7日(火)から開催予定だった企画展「模擬原爆パンプキンー市民が明らかにした原爆投下訓練」が延期になりました。4月号に続き、この企画展にご協力いただいた方からの投稿をご紹介します。

展覧会場の様子1

<写真1>中央が八事日赤病院北交差点。その東北角あたりが投下地点       
*『原爆投下訓練部隊―第509混成群団と原爆・パンプキン』(2013年 工藤洋三・金子力)より転載

 米軍の原爆投下訓練に関わる公開文書には、1945年7月26日(午前9時41分)に模擬原爆が名古屋市街地に投下された記載がある。また航空写真(1946年米軍撮影)によれば、投下地点は名古屋市昭和区山手通二丁目で、現在の八事日赤病院北の交差点東北角と確認できる<写真1>。
 これら米軍資料に記載された名古屋投下の模擬原爆については、「東海地方の戦災と空襲の集い」(1991年開催)等で注目され、投下場所・投下時間を検証し、死者数、投下付近の実態などを明らかにした。とりわけ投下地点の近隣に住む、模擬原爆の被爆体験者山田芙美代さんの証言が大きな意味をもった。

 山田さんは7月26日の当日、勤労動員先から帰宅していた友人Tさんを訪ねるが、栄養失調で体調不良のせいか、ふとんをかぶり寝ていたため、言葉をかけることなく自宅に戻る。帰路の途中知人宅へ立ち寄るが、そこで模擬原爆の爆風を受け右目失明に見舞われた。
 山田さんの証言はご自身のこうした惨状を語るに留まらず、米軍資料に記載された投下場所・投下時刻を裏づけるものであった。投下場所は、模擬原爆の直撃で爆死した友人Tさんの自宅で八事日赤病院北の交差点の東北角に位置していたこと、投下時刻は、Tさん宅を訪ねた時刻が9時30分~40分頃であったことから、いずれも米軍資料の記載内容とほぼ合致していたことが判明。また爆死者は少なくとも5名(友人Tさんとその母親、農作業を する近隣の高射砲陣地の勤務員3名)いたことも明らかにした。

展覧会場の様子1

<写真2>現在の八事日赤病院北交差点。その東北角に高層マンションが建つ(筆者撮影)

 なお、前述の米軍の航空写真に写る投下地点のクレーター跡が、直径20メートル程あり、1973年以降その地点にレストランが建設される以前はゴミ捨て場になっていたことが、山田さんの所蔵する写真から確認された(現在は、その場に高層マンションや大学生協東海会館の建物がある<写真2>)。

 

 私は1991年度から名古屋市社会教育センター(1997年以降生涯学習センターへ名称変更)に勤務し、毎年度、戦争・空襲の事実を地域の歴史として後世に語り継ぎ平和の尊さを考える「昭和区内での戦争・空襲体験を語りつぐ集い」を担当。1994年度には、模擬原爆の被爆体験を山田芙美代さんからあらためて詳しく聞いた。そこで語られた体験を後世に語り継ぐために記録化し、「戦後50年誌・模擬原爆の被爆体験記録」として発刊した。

 右目失明の山田さんは戦後苦難を強いられ日々の生活を送ってこられたが、ご自身の被爆が模擬原爆によるものと認識を新たにし、1990年半ば以降マッサージ業をいとなみながら、名古屋の模擬原爆の事実を後世に語り継ごうと語り部の活動を担われた。だが残念なことに他界され、名古屋の模擬原爆を語り継ぐ被爆体験者は皆無になった。
 今後は山田さんの心意気を受けつぎ、戦争・空襲被体験者が中心になり名古屋に落とされた模擬原爆の真相を後世に語り継ぐ取り組みが望まれよう。