◆私がパンプキンについて調べようとしたきっかけ
西岡 孔貴(大学生) 

                                           
 

ピースあいちが臨時休館になり、4月7日(火)から開催予定だった企画展「模擬原爆パンプキン-市民が明らかにした原爆投下訓練」が延期になりました。今回は、企画展に協力してくださった方から投稿していただきました。



 本来ならば、4月より開催予定であった企画展「模擬原爆パンプキン―市民が明らかにした原爆投下訓練」の交流会にて発表させていただく予定でしたが、新型コロナウイルスの感染拡大による企画展の延期に伴い、急遽このメールマガジンの場をお借りして、これまでの調査についてお話をさせていただくこととなりました。

 私はアジア・太平洋戦争に関することを研究するために大学に入りました。しかしながら何について研究するかを具体的には決めておらず、まずは研究テーマを見つける必要がありました。
 そんな中で、私が模擬原爆パンプキンについて強く意識するきっかけとなったのは 2017年の8月に広島平和記念資料館を訪れた時のことです。ちょうど東館の改装工事が終了した後で、原爆投下の経緯に関する展示が一新されており、その中に日本に投下されたパンプキンの着弾地点を表す地図が加わっていたことに気づきました。

 当時、私は、パンプキンという爆弾が存在していたことを学校の平和教育を通じて知ってはいましたが、原爆投下の目標都市である新潟・京都・広島・小倉の周辺都市に対して49発ものパンプキンが投下されていたことまでは知らず、非常に大きな衝撃を受けました。
 これを機に、パンプキンについて関心を持ち調べ始めたのです。

 

 一方で、パンプキンに関して、「なぜ長崎に投下された原爆の形を模したパンプキンしか作られなかったのか」という疑問を抱くようになりました。
 この疑問をインターネットや書籍のみで解決することはできなかったため、実際にパンプキンが投下された都市を訪問して情報を集めようという考えに至り、新潟県の長岡、そして愛知県の「ピースあいち」を訪問しました。
 「ピースあいち」を初めて訪れた際、パンプキンについて調べていることを受付の方にお話しすると「パンプキンに詳しい人がいる」と、教えていただきました。詳しいお話は翌週の土曜日にうかがうこととなりましたが、その「パンプキンに詳しい人」こそが、「春日井の戦争を記録する会」で模擬原爆パンプキンの存在を特定した金子力さんだったのです。

 

 金子さんからお話をうかがったことで、パンプキンがなぜ長崎に投下された原爆の形に模して造られたかという疑問に近づくことができました。
 長崎に投下された原爆は、一般的な焼夷弾等と比較してずんぐりとした形状をしています。そのため、爆撃機から投下した際にどのような放物線で落下するのかデータ収集する必要があり、パンプキンという爆弾の開発に繋がったのです。 

展覧会場の様子1

西岡さんがまとめた「米軍資料を解読する」レポート

 

 しかし一方で、パンプキンとは別に、原爆を実際に投下したパイロットが訓練で使ったとされる「試験弾」が存在した事実も知り、パンプキンが本当に原爆投下の訓練で運用されていたのか疑問に思いました。
 そこから、私も一次資料を実際に解読することで考察を深めたいと考え、金子さんに資料のコピーやアドバイスをいただきながら解読を試みることとなり、現在に至っています。

 

 以上が私のこれまでの調査の経緯です。今後は、これまでの調査に関連したテーマで卒業論文を執筆することを黙標に、調査を継続しております。