豊川海軍工廠保存会の若手の方から見学会のお誘いをうけて      
ボランティア(次世代交流チーム) 岩男 涼    



展示室

 7月のある日、私は豊川市のとある公園に次世代交流チームのメンバーと一緒に来ていた。そこは、一見きれいに整備された公園であった。うだるような暑さだったが、芝生の緑色が見事に映えており、その公園の隣の空き地に生い茂る草、公園を挟んだ反対側の雑木林は夏の日差しを浴びていて生命の息吹を感じさせていた。
 今は静かで穏やかな顔を見せているその場所も74年前は180度違った顔を見せていた。

 

 74年前、そこには東洋一と謳われた巨大な軍需工場、豊川海軍工廠があった。敷地面積は330ヘクタールで東京ドームの約70個分だ。いかに巨大な工廠だったのか想像に難くはないだろう。その巨大な豊川海軍工廠では1945年8月当時、約56700名の人々が働いていたという。その中で正規の職員、工員は10700名ほどで、残りの約46000名は徴用工や女子挺身隊そして動員学徒だった。大人だけではなく、夢や希望や未来のあった子ども達が大勢働いていたのである。
 そして、その場所は惨劇の舞台にもなった。1945年8月7日、午前10時13分から30分間、B29爆撃機124機とP51戦闘機45機によって250キロ爆弾3256発が約56700名の工員の上に落とされ、2500名以上が犠牲になった。その中には学徒の子どもたちも大勢含まれていた。私たちが来ていた公園とは、その惨劇を忘れないために整備された豊川海軍工廠平和公園だった。

 

 その日は、豊川海軍工廠保存会の若手の方から見学会に誘われて来ていたのだ。私は、子どもの頃、浅丘ルリ子主演の「早咲きの花」という豊橋市を舞台にし、豊川海軍工廠への空襲についての描写もある映画にエキストラで出た経験があったことに加え、戦争については幼少の頃から関心があったので豊川海軍工廠と空襲について知ってはいたが、一度も現地を訪れたことがなかったため、語弊があるかもしれないが、現地での学びを楽しみにしていたのである。
 今回はガイドの内容全てを詳細に記憶しているわけではないが、印象に残ったことをいくつか紹介していこうと思う。

 

見学会は最初、豊川海軍工廠についてのビデオから始まった。豊川海軍工廠の概要がよくまとまっていたビデオであり、海軍工廠のあらましがよくわかった。
 その後に、いよいよメインのガイドが始まった。平和公園内に残る遺構は旧第一火薬庫、旧第三信管置場、街路灯、防火水槽跡、防空壕跡だ。

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旧第一火薬庫

 まずは、旧第一火薬庫に案内された。旧第一火薬庫は鉄筋コンクリートでできた建物で、外観は土に被われていて見えない。その土の山の裾の部分には着弾跡があった。空襲の際に250キロ爆弾が落ちた跡だ。よくあるすり鉢上の着弾跡ではないから一見すると被害はそこまでないように思える。しかし、当然ながら爆弾というものは鋭利な金属片が飛び散り、人を殺傷する。実際に着弾跡を間近に見て、もしここに自分がいたらと思うとゾッとした。第一火薬庫の中へと案内された。その日は暑い盛りだったが第一火薬庫は換気がしっかりされていて暑くならない仕組みだった。74年も前、クーラーもないのに室内の換気を調節する工夫が見られたことには驚きを隠せなかった。
 次に案内されたのは防火水槽だ。防火水槽はこの巨大な施設群を火災の危険から守るには不十分な大きさだった。ガイドの方は、人命は後手に回ったと言っていたが全くその通りであると思う。想定としてはバケツリレー、運が良かったらポンプ車が来るか来ないかというものであったという。

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旧第三信管置場

 次に旧第三信管置場を案内された。「信管」という弾丸の起爆装置を保管していた施設だったという。この建物は爆発事故に対策する工夫が見られた。土塁で周りを囲み、構造も廊下の屋根と、壁は鉄筋コンクリート造りだが、部屋の屋根は木造になっており、爆発事故の際に木造の屋根を吹き飛ばし、被害を小さくするという工夫だ。人命は軽視されたが、建物に対しては、被害がなるべく及ばないような工夫がされているようだった。
 次に案内されたのが防空壕の跡だった。防空壕跡は、これが防空壕かと思えるほど粗末なものだった。ただの窪みに過ぎず、この、小さな屋根もない防空壕の中で爆弾が雨のように降り注ぐ中、阿鼻叫喚の地獄絵図だったといわれる空襲を凌いでいたのかと思うと、建物への対策との差に対して怒りを覚えた。
 その後、豊川市平和交流館で豊川海軍工廠の歴史や遺構に関する解説の展示を見学し、詳しい海軍工廠の歴史を学ぶことができた。
 見学会に参加した方たちと昼食を共にし、その中でこのような活動をする上で互いの悩みを交換し合った。昼食後に豊川海軍工廠で犠牲になった方の慰霊塔へ行った。慰霊塔には亡くなった人の名前がびっしりと記載されていた。空襲により犠牲になられた方々の御霊が安らかならんことを願い、祈りを捧げて解散になった。

 
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 今回、私はこの見学会を、戦争の記憶を次代に伝えていく者という視点から参加した。私たちは体験者ではないから、やはり本当に体験した人が語る重みは伝えられない。何かが違うと感じた。ある体験者は、あれは体験した者しかわからないと言う。こうした悲惨な戦争の記憶をいかにして後世に引き継ぐのか、これは私たち若い世代が全ての体験者と犠牲になった方々から突きつけられた重い重いテーマであろう。
 こうした若い世代同士の交流を持てたことはとても有意義なことであった。次世代交流チームとしても今、新たな企画に向けて動き始めている。私たちにできることを少しずつ進めていきたい。これからも互いにこうした交流を積極的に続けて行き、私たちにできること、また、私たちだからできることを模索していけたらいいと思う。こうしてできたつながりを大切にしていきたい。また、今度は豊川の方に私たちピースあいちにお越しいただけたら幸いだ。