◆特別展「水木しげるの戦争と新聞報道」チームに加わって
ボランティア 佐藤 和夫

                                           
 

 わが家の玄関先の廊下には、ピースあいち2016年夏の特別企画「私の八月十五日展(マンガ家・戦争体験者…あの日の記憶)」のポスターが飾られ、そこには水木しげるさんがお兄さんとともに2等兵の軍服姿で描かれています。
 そして、この夏はピースあいちで特別展「水木しげるの戦争と新聞報道」の開催となりました。
  私は水木しげる作品とはあまり縁がなかったのですが、水木しげるの研究者でもある民俗学者 蛸島教授(愛知学院大学文学部)とのご縁から、今回企画展チームの一員に加わりました。

絵はがき

2016年にピースあいちで開催された
「私の八月十五日」展のポスター(部分)

 アジア・太平洋戦争もすでに戦況著しく不利となった1943(昭和18)年、糧秣等の補給もかなわぬ中、片道切符的ともいうべき南方戦線ニューブリテン島ラバウルに送り込まれ、物量に勝る敵の激しい攻撃や食料不足、マラリアなどの病気のため、仲間がほぼ全滅するなか、爆撃により左腕を失いながらも現地住民に助けられてしぶとく生き残り、奇跡の帰還を果たした水木しげるさん。
 93歳でこの世を去るまで、水木しげるさんが右手1本、絵筆によって「ゲゲゲの鬼太郎」ほか、数えきれない作品を通じて日本国民に伝えたかったことは一体何だったのでしょうか?

 

 明るくてややニヒルな水木しげるさんは表立って戦争批判の声を上げることはなかったようですが、各作品には平和を切望するメッセージがちりばめられ、自著の中でも「昭和の歴史は大きな犠牲を払って得た『もう戦争はしてはいけない』という大きな教訓の歴史だった。ふたたび過ちを犯してはいけない」と述べています。娘さんも「父が生きて帰ってきたのは、戦争の本当の姿を伝える役目を担わされていたのではないかと思う」と述べておられます。
 膨大な作品を通じての水木しげるさんの国民へのメッセージは、「戦争は愚かなもの、決して二度とおこしてはならないもの」というものだったのではないでしょうか?

絵はがき

ピースあいち2階の
プチギャラリーで展示された絵手紙

 今、若い人のなかには「平和が大事なのは当たり前だが、学校での『平和を守ろう、考えよう』という建前論が嫌いだった。なぜ戦争が始まってしまったのかをきちんと教えないと若者には響かない」との意見もあるようです。
 そういう点では、今回の展示とあわせ、ピースあいちの2階常設展示「15年戦争」で、日本はなぜそのような戦争に突入していったのか? 戦争はどのような経過をたどり、どのような結末を迎えたのか? なぜ止めることができなかったか? などを見てもらうことによって、そうした若い人たちの疑問や思いにも少しは応えられるのではないか? と思います。
 そして、老若男女、大勢の国民の歓心を集めてやまなかった水木しげるさんの人となりと作品の魅力について、冒頭で紹介した蛸島教授による8月17日(土)開催の「妖怪ぬりかべと水木しげるの戦争体験」講演において、別の角度からさらに深めてもらえたらと思います。
 メルマガ読者の皆さん、8月17日にピースあいちでお会いしましょう!