◆所蔵品から◆資料ナンバー7732 名古屋の新聞、沖縄戦とそれ以外の記事の話
資料班



毎日新聞1944年10月13日

毎日新聞1944年10月13日

 先月の「所蔵品から」では、沖縄戦のいろいろな局面を名古屋の新聞がどう伝えていたかをご紹介しました。
 新聞を調べていると、目的の記事だけでなくまわりの記事も気になってきました。
 今月は、先月ご紹介しきれなかった沖縄の記事と、沖縄に関係ないけれど気になった項目をいくつか拾い上げてご覧いただこうと思います。

 最初は台湾への空襲を伝える記事です。
 新聞の日付は「昭和十九年十月十三日」。昭和19年は1944年です。10月10日に沖縄は激しい空襲にあいました。「十・十空襲」と呼ばれています。そのすぐ後の10月12日、台湾が空襲にあいました。
 沖縄の歴史という区切りからは、はみ出してしまいますが、当時の台湾は日本の統治下だった事や、沖縄と台湾はすぐ近くという事を考えると、連続というか関連した戦いだったのだろうと思います。
 沖縄の時と同じ無差別爆撃である、戦意阻喪を狙っている、日の丸のついた飛行機を混ぜている、など、敵がいかに卑劣か、という書き方になっています。

毎日新聞1944年3月17日

毎日新聞1944年3月17日

 日付をさかのぼって1944年3月17日、「盲爆下のベルリンを描く スイス人の体験記」。日本の同盟国ドイツの首都であるベルリンの空襲(1943年11月22日)のレポートと、「今度はロンドンの番 独、近く本格的爆撃断行を言明」の記事です。
 ベルリン空襲の記事の最後のほうをご紹介します。「辛酸をなめつつも、ベルリン市民の生活は依然どうにかして続けられている、」
 「ドイツ人の労働に対する激情というものは全く素晴しいもので、幾度か惨憺たる憂目にあってもすぐ立直るのは全くこのためだ」。労働に対する激情って、すごい言い方だと思います。ほめてるのですよね。
 「家が焼けてしまうと、住民たちはガラクタの上にかまどを築き、地下室に寝室を設け、さて曰く『これで結構生きて行けるわい』」


毎日新聞1944年10月月17日

毎日新聞1944年10月17日

 1944年10月17日 の新聞からは、十・十空襲のレポートです。「那覇空襲体験記」「一軒一軒に焼夷弾」。
 中身は、「グラマン」による掃射のことが多く書かれています。事実を伝えるニュースというよりも、感情に訴える読み物のようになっています。
 たとえば、「グラマン」の太字のあたりは、「アア私共はここで何を見たか、…なんというグラマンの残虐さであろうか…この腹の底からこみ上げてくる憤怒を一億と共に分つべく私共は勇を鼓して書く」。こんなふうに書かれています。


毎日新聞1944年10月月17日

毎日新聞1944年10月17日

 「学童疎開その後」「暗過ぎるお寺の電灯」
 座談会形式の記事です。1944年夏の疎開の後、子どもたちの置かれた状況は。「保健」というテーマの記事です。
 女子30人に便所がひとつしかないとか、ラジオが聞けないとか、広いお寺の本堂に電球がひとつきりで本も読めないなど、疎開先の不自由を挙げています。


毎日新聞1944年3月27日 毎日新聞1944年3月29日

毎日新聞1944年3月27日・3月29日

 沖縄への米軍上陸直前の様子を伝える新聞です。「艦砲射撃」が行われています。上陸ののち地上戦となるのですが、その前には艦砲射撃が行われていたのがわかります。艦砲射撃は、船の上の大砲から攻撃するものです。遠くから飛行機で来て爆弾を落としたりする空襲よりも、敵が近くまでせまって来ているということになるのかと思います。




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http://www.peace-aichi.com/pdf/20190622_shinbun-okinawa-sonota.pdf

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