「名古屋空襲慰霊の日」  制定を求める請願活動報告
東邦高等学校生徒会           

                                           
 
絵はがき

3月9日、活動報告をする生徒会代表

 

 東邦高校の近所にあるピースあいちでは現在「 『熱田空襲』―6月9日 愛知時計・愛知航空機への空襲 8分間で奪われた2000人のいのち」(2019/3/5~5/5)という企画展が開催されています。この企画の一環として、私たちは3月9日に「名古屋空襲慰霊の日」請願の取り組みをミニレポートしました。多くの市民の方に私たちの取り組みを伝えることができました。


絵はがき

東邦高校正門入口横の「平和の碑」

 東邦高校は、1944年12月13日 三菱重工業の大幸工場へ学徒動員に行っていた当時東邦商業高校の生徒18名、教師2名が爆撃に遭い、犠牲になりました。1995年爆撃跡がくっきりと残る煙突の一部を三菱重工業から譲り受け、本校正門入口横に「平和の碑」として建立。以降毎年12月に「慰霊の日」を学校行事として行っています。  2014年、生徒会が名古屋空襲から70年の節目として、「名古屋空襲慰霊の日」制定を求める要望書を名古屋市の河村市長へ提出。それを引き継ぐ形で2018年11月30日に「名古屋空襲慰霊の日制定を求める請願書」を名古屋市議会へ提出しました。

 

 「請願ってどうするのか」「請願項目を何にするのか」など、初めてのことばかりで、戸惑いや不安もいっぱい。各高等学校生徒会に賛同署名の依頼をしたり、市議会各会派の議員さん(名東区選出)には、請願書の紹介議員を依頼しました。議員さんたちには文面だけでは熱量が伝わりきらない、そこには書かれていない私たちの想いを伝えたいという理由で、今回は直接会いに行きました。マスコミにも取り上げていただき、見ず知らずのおばあちゃんやおじいちゃんからの激励の手紙もたくさんいただきました。

 

 2019年1月24日、名古屋市議会の総務委員会で生徒会を代表して会長が口頭陳述を行いました。その後請願が審議され、「名古屋空襲慰霊の日については、市民や各団体の様々な意向を踏まえつつ、慎重に検討していく必要がある」との理由で、「保留」(継続審査)になりました。「空襲に関する資料を整え、全市民が共有できる仕組みを設ける」という請願項目は、全会一致で採択されました
 この請願は1月の段階では請願項目の一部が保留となっていますが、3月14日に名古屋市議会総務環境委員会で、もう一度審議されることになっています。
 「慰霊の日」の取り組みを通して、多くの方と関わり、普通では体験できないようなこと、知ることさえできないようなことを知ることができました。本当に大切な経験です。「ようやくスタートラインに立てた」という思いで、今後も取り組んでいきたいと思っています

 

 報告会に参加された方から、次のような感想をいただきました。
「熱田空襲のお話、高校生の方々のお話。改めて、戦争は遠い過去でなくその事実があって私たちは生きていて、そしてどう生きていくのかを考えることの大切さを感じました。 若い世代が同世代に『ナニソレ?』と言われながら『やるんだ!』と知らないことをやっていくのは、とても勇気のいることかと思います。仲間とともにぜひがんばってほしいし、皆さんがしていることは、とても頼もしいことで、たくさんのひとの力になっていくことに誇りをもってほしいと思いました。私もがんばろう!館長さんのことば、ジーンときました。私たちは、つらいことも目を向けて、平和のためにどんなひとともつながって考えられる人間でありたいですね。福島、沖縄、他にも戦争(震災)で傷ついたところに、フタではなく花を咲かせるように人々の思いが集まりますように。地に足がついた生活の中に幸せを感じられる世界になりますように…。(38歳女性)」


●制定運動に取り組んだ東邦高校生徒会役員の想い…        

制定活動なんてやる意味あるのか?最初はそんな思いの中、活動をしていました。しかし、活動を通じて思いは変わっていきました。この請願がどれほど重要なものか気づいたのです。慰霊の日を制定することによって、今後の未来にどのような影響を与えるか考えました。僕はこの活動をするまで名古屋空襲について全く知りませんでした。制定の話を通じで戦争について学ぶ機会が増え、その恐ろしさを語り継ぐことができると考えました。(I)

私が活動に賛同した理由は、単純だった。それは、空襲について知った時の恐ろしさからだった。私はこれまで名古屋空襲のことについて一切知らなかった。そもそも名古屋空襲という言葉すら知らなかったのだ。請願活動を始める前に、先生や先輩から、当時を生きられた方のお話を聞き、恐ろしさのあまり鳥肌が立った。その時私は「請願書が採択されること」が一番の願いだが、「皆が名古屋空襲について、考えるきっかけ、知るきっかけとなること」を願って取り組もうと思った。(G)

僕がはじめて平和について興味を持ったキッカケは、東邦高校の「平和の礎」を建立した当時の生徒会役員をしていた上野なつよさんのお話を聞いたときです。「平和とかめんどくさそう」「平和とかつまんない」と勝手な先入観を持っていたが、「平和がこれほどまでに人を動かすことができるのか」と、とても衝撃を受けました。それからは自分たちで請願書を作ったり、賛同をお願いしたり、実際に動くことができてとても充実していました。(Y)

「平和」「あたり前」を考えることなんてほとんどありませんでした。考えるきっかけとなったのは、生徒会の「名古屋空襲慰霊の日」制定を求める活動です。突然の空襲によって普段「あたり前」だと思っていたことがすべて破壊されてしまい、平凡な日常ではなくなるというお話を聞きました。「あたり前」があたり前でなくなったら…。スマホがなくなったら大パニックです。食べ物が無くなれば餓死。僕が今思う平和の定義は、「誰もが不安なく生活し、共存できる世界」。(M)

祖母が沖縄出身で小さい頃から家族と沖縄に行っていました。去年の夏、夏休みの宿題で沖縄の防空壕「ガマ」について読んでいたので、せっかくだから実物を見てみようと近所のガマを見に行ったのです。ガマの前に立った時の感覚は、一生心に残るものでした。悲しいような、苦しいような言葉にできないほど、心の奥底に鉛が溜まっていくような感覚がありました。この中でたくさんの人が亡くなっている。生き埋めなんて想像しただけでも苦しい。今でもガマの中からは、遺品や遺骨が出てくるそうです。それを知った時に、伝えていかなくちゃいけない、それは沖縄だけでなく、私の住む名古屋でも同じだと思いました。今まで東邦の先輩方が繋いできた命のバトン、平和のバトンを今ここで拾わなければいけないと、気持ちを新たにしました。それからはもう動くだけでした。(M)

きっかけは祖父だった。「慰霊の日の制定をしたと聞いた。すごいことをしたのでは?いい仕事しているね」と。どこで聞きつけたのか、私が話す前に「名古屋空襲慰霊の日」の取り組みを知っていた。私は、この活動を始めたころあまり乗り気でなく、「まあね」なんてあからさまに気のない返事をしていた。新聞やテレビで取り上げられると、家族のlineグループに感想付きで報告してくれた。「生徒会の活動に拍手。じいじにもできることあるかな?」。東邦の卒業生である祖父は友人や同級生にこの取り組みを話していた。生徒会へ手紙をくれた老人もいた。いろんな人がこの活動を喜び、「高校生が考えてくれている」と期待してくれている。そんな想いがやっと私の心にも火を付けた。「名古屋空襲慰霊の日」を定めることで、「知らない」を「聴いたことある」に変えることができるかもしれない。(N)

入学当初、平和の礎が一体何なのかよくわかっていなかったが、活動を通じて礎が置かれている理由や、我校では年一度、慰霊の日を設けて、戦時中の痛ましい記憶を受け継いでいるという事を知った。名古屋市にはなぜ「名古屋空襲慰霊の日」が制定されていないのか。おそらく名古屋に住んでいる人でも私のように名古屋空襲があったことを知らない人はいるだろう。体験した人がいなくなったら語り継いでいくのは私たち。果たして上手に語り継いでいけるのだろうか。現状維持では何も変わらない。より多くの人に知ってもらう必要があると私は思った。(K)

活動を始めた直後、名古屋に慰霊の日がない事を知って驚きました。私は広島と愛知の義務教育を受けました。広島では平和学習などで地元のことを知る学習がありました。その学習で広島の歩んできた歴史にふれることができ、広島を誇れるようになったし、社会に関心を持つきっかけになりました。愛知ではそういった学習を受けたことがありません。役員の大半の人も「ない」と。広島では8月6日、平和記念式典がおこなわれ、その日は平和を考える日となっています。名古屋にはそういった日はなくキッカケがありません。キッカケを作るためにも慰霊の日を制定すべきだと訴えかけました。(I)