満蒙開拓の史実をうかがって――「前事不忘、後事之師」の大切さ
ボランティア 白井 文子            

                                           
 
絵はがき

 

 2019年2月24日、ピースあいち研究会において、満蒙開拓平和記念館館長・寺沢秀文さんのご講演「満蒙開拓の史実を語り継ぐ中で見えてきたもの」を拝聴した。寺沢さんは、満蒙開拓の歴史や満蒙開拓平和記念館の取り組みについて、自身のご家族のお話や愛知県の開拓団のお話を交えて語られた。

 満蒙開拓団として満州に渡った方々にとって、それは夢であり希望であったはずだ。しかし、理想を追い求め努力してきたその生活も、戦局が傾くにつれ、生と死の狭間に立たされることになる。
 当時、日本政府は「五族協和」を掲げながらも、その内容は民族差別に基づく植民地的性格を帯びていた。戦局の傾きにより、満蒙開拓団の人々は、日本人の侵略行為に耐えかねた現地住民からの襲撃に加えて、1945年8月9日にはソ連軍からの攻撃にも晒された。
 これによって、ある人びとは殺戮(さつりく)され、また自決を選ぶ人びともいた。必死に逃げ延びたとしても、1946年5月まで日本に戻れない状態で冬を越さなければならなかった。少女は髪を剃り、男の子に姿を変え、家族の安否も分からぬまま身一つで日本に帰った。

 私は、寺沢さんのお話をうかがいながら、史実の受け取り方について考えた。
 被害を語るのは、たやすいことではない。それをどれほど当時の思いと状況を鮮明に詳細に語ったところで、他者に十分に伝わるものでもない。話を聞き、涙を流すこともできるが、それは、話者の経験を追体験したことと同義ではない。それでも当事者のお話しには重みがある。いま、この場にいるこの人がどんな思いで生きてきたか、それを感じ取ることはできる。

 一方で、加害は長らく語られずにきた。自らが加害者である認識は、自覚があるものでさえも語るには難い。しかしながら、満蒙開拓平和記念館では、開拓団として受けた被害の歴史とともに加害としての立場にも目を配ってきたという。被害に偏りがちな戦争体験に、風穴を開ける試みが、進みつつあることを実感する。
 「集団自決」、米軍への投降を防ぐための日本軍の扇動活動、そしてスパイとして駆り出された沖縄の少年たち…様々な事実が明らかになる。沖縄戦を始め、満州など日本領土の末端に立たされた人びとの戦争経験は、計り知れないものだろう。いや、“計り知れない”“苦労”というような言葉で簡潔に表現できるものでは決してない。そして、一人ひとりの経験を順位づけしたり、不幸の重みを測ったりすることもできない。

 あらゆる出来事には、様々な立場からの様々な経験がある。人は、ある出来事に直面したとき、自らの経験がすべてだと考えてしまう。だが、同じ戦争での経験でさえ、それぞれの立場、階級、性差などによって一人ひとりが異なる経験を持っていることに気づく必要がある。

 「日本人は信用できない。かつて侵略したからではなく、今の日本人がかつての歴史を知ろうとしないから」――お話のなかで、寺沢さんが、あるアジア青年の言葉を引用された。この言葉が私の心に刺さっている。外国人旅行者が増え、外国人労働者の受入れが本格化する今だからこそ、過去を多角的に捉え直す必要性を感じている。それは、語る人の訴えんとすることに耳を傾けることであり、そして、語らぬ人の沈黙の重みを噛み締めることでもある。