8分間で奪われた2000人のいのち
「熱田空襲」-愛知時計電機はなぜ空襲を受けたのか?-
運営委員  金子  力           

                                           
 

3月5日(火)から5月5日(日)まで、企画展 「熱田空襲」―6月9日 愛知時計・愛知航空機への空襲~8分間で奪われた2000人のいのち~を開催します。開催に先立ち、6月9日空襲の概要をご紹介します。

 米軍B29爆撃機が日本本土上空に現れ、空襲をはじめたのは1944年(昭和19)11月24日のことでした。最初にねらったのは日本の軍用機工場でした。現在の東京都西東京市には航空機のエンジンを生産した中島飛行機武蔵製作所がありました。米軍はこの工場を日本における航空機生産の最重要工場と位置付けていました。東京に続いて目標になったのは名古屋市東区大幸町にあった三菱重工業名古屋発動機製作所と、同港区大江町にあった三菱重工業名古屋航空機製作所でした。発動機製作所は12月13日、航空機製作所は12月18日に空襲を受けました。
 中島と三菱は日本の軍用機生産の1・2位を競う軍用機メーカーであったため米軍は工場の破壊を完了するまで何度も攻撃を繰り返しました。こうした航空機工場への精密爆撃(爆弾を使って工場をピンポイントで破壊する)が一定進むと、1945年(昭和20)3月からは大都市の地域爆撃(焼夷弾を使って市街地を焼き払う)空襲をはじめます。名古屋は3月12日、同19日、5月14日、同17日の4回にわたって大量の焼夷弾を投下され、市街地中心部は焼け野原となってしまいました。

 6月に入ると米軍は、全国の中小都市を地域爆撃の目標とした攻撃を開始します。毎回、全国の都市の中から4つの都市を選んで、夜間、焼夷弾で焼き尽くす作戦でした。それと並行して、各地でまだ破壊されていない複数の軍需工場を同時に爆弾で攻撃する作戦を組み合わせて実行しました。これを米軍は「エンパイア作戦」とよんでいました。
 エンパイア作戦が始まったのは6月9日で、川西航空機鳴尾製作所(兵庫県西宮市)、川崎航空機明石工場(兵庫県明石市)、愛知航空機熱田発動機工場(名古屋市熱田区)の3カ所を目標にした攻撃でした。名古屋空襲最大の犠牲者が出た「熱田空襲」は米軍のエンパイア作戦によるものでした。エンパイア作戦として白昼、複数の軍需工場を同じ日に攻撃したのは6月9日、10日、22日、26日、7月24日でした。

 愛知航空機は愛知時計電機から分離独立した企業です。なぜ時計製造会社が軍用機製造工場となっていったのか、その経過をみておきましょう。
 愛知時計製造㈱が設立されたのは1898年(明治31)のことでした。このころ名古屋には多くの時計メーカーが誕生し、全国時計メーカー30社のうち15社が名古屋にあったといわれています。名古屋で生産された時計は国内で販売されただけでなく、中国などにも輸出されています。こうした時計会社の精密部品製造技術に目を付けたのは陸・海軍でした。1904年(明治37)に日露戦争が始まると、熱田に砲兵工廠が設置されたこともあり、陸軍から時計製造技術を生かした砲弾の信管部分の発注、海軍から機雷、魚雷発射管の注文が入り、軍需部門への参入がはじまります。1912年(明治45)には社名を「愛知時計」から「愛知時計電機」とし、時計部ではこれまでの時計を製造、電気部で兵器製造を行うようになり、軍需部門が拡大していきました。

 

 1920年(大正9)になると、当時最先端の技術であった航空機生産を開始します。当初は横須賀海軍工廠へ職工を派遣して航空機製造の技術を取得して、1号機を完成させることができました。1922年(大正11)には、現在の愛知時計電機本社のある熱田区千年船方に飛行機組立工場、機械工場、築地に格納庫の設置と軍用機の生産体制が進められました。当初製造したのは海軍の水上機機体でしたが、1929年(昭和4)には航空機用発動機(エンジン)の製造を開始、1941年(昭和16)には国内で5本の指に入る軍用機メーカーとなっていきました。
 1941年に永徳工場、1942年に明徳工場を増設して軍用機の大量生産体制を整え、1943年には、愛知時計電機から分離独立した愛知航空機が設立されました。真珠湾攻撃に出撃した九九式艦上爆撃機や零式水上偵察機は愛知時計電機が製造した軍用機です。

全体の写真

米軍資料「標的フォルダー」に登録されていた愛知時計電機(愛知航空機)
米国立公文書館蔵 国会図書館デジタルライブラリーより

 

 時計製造から出発した愛知時計電機は、軍用機の製造工場として海軍管理工場に指定されるところまで軍需工場として変化を遂げていきました。米軍は日本本土空襲の準備としてどこに何があるのか、日本の情報、特に軍需工場などの目標情報を集めてリストを作成、攻撃目標の絞り込みをしていました。1944年(昭和19)7月6日に作成された目標リスト(標的ホルダー)の名古屋地区には愛知時計電機の工場が90:20-198として登録されていました。90は日本本土、20は名古屋地区を表し、198は目標に付けられた個別の番号でした。
 さらに空襲をはじめる前の1944年(昭和19)11月に米軍のF13偵察機が名古屋上空の空中写真の撮影に成功、撮影した写真を分析して攻撃目標の決定の資料となり、1945年(昭和20)6月9日の空襲で攻撃を受けることになりました。