常設展より◆「現代の戦争と平和」より 「ガンジー」      
ボランティア 桑原 勝美            

    

倉橋画像 封筒

 戦争などの暴力によらず平和な世界を築く道はないか。古くは1795年のカント『永遠平和のために』(当館常設第4展示参照)があり、近現代ではガンジーの運動論が注目される。
 ガンジーは、イギリス留学で法廷弁護士資格を取得(1891年)後の約20年間、南アフリカ在住インド人への人種差別撤廃運動に関わり、続く1917年頃から約30年間はイギリスからの独立やヒンズー・イスラム宗教間の融和へ向けて非暴力的な運動を展開した。

 

 ガンジーは始めから非暴力主義者だったのではない。彼を非暴力へ導いたのは「ボーア戦争」である。17世紀、オランダ人が南アフリカに植民地を建設し、入植した人々は「農民」を意味する「ボーア人」と呼ばれた。19世紀、産業革命後のイギリスはアフリカへの進出を続け、オランダ植民地に埋蔵される金やダイヤモンドを略奪するために戦争を仕掛けた(ボーア戦争、1899-1902年)。
 ガンジーはイギリス部隊の一員として参戦。銃弾の飛び交う戦場を走り回り、命がけで負傷者を救援した。その中で、人間同士が殺し合い、人間の尊厳が損なわれて行く不条理を深く嘆き、暴力否定の思想を鮮明にしたのである。

 

 少し遡るが、ガンジーが南アフリカへ渡った1893年頃、多くのインド人が移民労働者として働いており、インド人に対して人頭税、強制的指紋登録制、キリスト教方式以外の結婚方式を非合法とするなどが実施されていた。彼は人種差別と移民排斥政策はインド人の基本的人権を侵害する問題であるとの義憤を抱く。
 抑圧された人間の権利を守る道を究め、「人権尊重」が真理だと覚り、その真理に基づく非暴力的な運動を「サティアグラハ」と名付けた。サティアグラハ運動で闘った結果、南アフリカ政府がインド人移民の要求を認める救済法を施行し、人頭税の廃止、インド式結婚の合法化など、ガンジーの約20年に及ぶ運動が実を結んだ。

 

 ガンジーが南アフリカから帰国した当時(1915年)のインドは、イギリスから独立して新しい国を建てるために彼を必要としていた。彼の非暴力による独立運動は不服従、非協力など多岐にわたる。イギリス製品の不買運動、禁酒運動、警察・役所・軍隊などに勤務する者の辞任、大学・高校生の自主的な退学、弁護士による政府関係の仕事の停止、公共交通機関のボイコット、農民の地租不払い運動など、草の根の運動が実践されて行った。

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 彼は民衆に愛される指導者であった。見捨てられていた民衆の暮らしを生活実態調査により正確に理解し、衣食住における自立を獲得することこそ何億もの人々が主権者となる社会の礎だとの信念を貫いた。
 彼は帰国以来、白いインド服を着用し続けていたが、インドでサティアグラハ運動を始めて以降、イギリスの綿製品の使用を止めて、上半身は裸、下半身には自ら糸を紡ぎ粗末な白布を織って巻くだけのスタイルに変え、運動の重要段階では断食を行なった。

 

 インド独立(1947年)後もヒンズーとイスラムとの宗教間の融和を求める運動を続けたが、1948年、この運動中、非暴力運動に敵意を抱くヒンズー過激派の銃弾により「マハトマ(偉大な魂=尊称)」「平和を紡ぐ人」の生涯を閉じてしまう(享年78歳)。
 だが、ガンジーの運動論は世界各地の民主的な運動のシンボルとなり、南アフリカのアパルトヘイト撤廃運動、アメリカのキング牧師の公民権運動(当館常設第4展示参照)などが、非暴力的に展開されたのである。

 

 冒頭の問いに対する現代の回答の一つは、ガルトゥングの平和研究(1959年)であるが、回答は人により多様である。大切なことは、先賢の足跡や体験を学ぶなどして一人ひとりが考えつつ意思表示を続けて行くことであろう。