◆ボランティア雑感◆語り手7年―今年から動画も使って  
 ボランティア・語り手の会会員 森下 規矩夫            

                                           
 

  故郷は、年を重ねるごとに懐かしさがこみあげてくる。その故郷を戦争で失った私は時々強い郷愁を覚え、耐え難いことがある。戦争は過酷なもので、小学校一年生の時に故郷を一瞬にして奪い去った。残ったのは記憶のみである。その後は、繰り返される空襲から逃れるために、名古屋市から三重県に親戚を頼って疎開をした。そこで敗戦となった。

  「ピースあいち」と関わりを持つようになったのは、「ボランティア」のKさんを通じてである。この時、米国(米国立公文書館)が太平洋戦争に関する膨大な資料を保存、公開していて、それが入手できると教えていただいた。資料は、まるで物理の実験のように科学的にまとめられていた。
 長年探し続けてきた、1944年12月13日三菱重工発動機工場爆撃中の上空写真を見つけた。
 そこには、焼失前の「我が家」と遊び場であった「神社の森」などが写っている。見ていると懐かしさがこみ上げてくる。しかし、神社の森の防空壕でどこへ落ちてくるか分からない爆弾の恐怖や、繰り返される空襲の惨状、焼け野原となった町の光景なども浮かんできた。
 「語り手」の「ボランティア」に参加しようと決意をした原点はここにある。きっかけの基を作ったのは「阪神淡路大震災」、あの焼け跡の光景を目にして、戦中、戦後の街の姿がよみがえってきた。約50年過去へタイムスリップし、空襲で破壊された市街が再現されたのである。焼け野原と化した名古屋とはその規模は比較にならないが、赤茶けたがれき類、くすぶる木材、垂れ下がる電線などは現実味があった。

絵はがき

パワーポイントを使って子どもたちに戦争体験を語る森下さん


 「ピースあいち」で空襲体験の「語り手」を始めてからおよそ7年、語ったのは、30回をこえている。初回は2011年度、夏の戦争体験を語るシリーズに参加、「ナゴヤドームと私の空襲体験」というタイトルで、パワーポイントを使って語った。身近なドームに関連を付けてまとめたが、振り返ると余分な話もしたと思う。はじめてであるから助言をと期待したがあまりなく、自分で資料を集め作成した。その後、回を重ねていくと余裕ができて視聴者の反応が少し分かるようになってきた。

 「語り」の内容の大筋は変えていないが、視聴者の居住地、年齢、職業などに合わせて変化を持たせている。特に居住地の空襲記録を調べ、あれば必ず取り入れて、身近なものとして考えてもらい、可能ならば、疑似体験できるまで理解を深めていただきたいと願っている。そこまで自身の体験を言葉と画像で表現するのはむずかしいと思っている。新しい試みに今年から「動画」の活用を始めた。
 今は、
 7月23日 春日井市岩成台西小学校子供の家(社会福祉協議会)  
 7月27日 春日井市青年会議所
に向けて準備を進めている。8月14日、敗戦前日に投下された模擬原爆「パンプキン」に関する説明を加えた。3年ほど前からは、敗戦後厳守してきた平和路線がくずれ、憲法違反の安保法案を推し進めようとしている流れを語り、二度と同じ悲劇を繰り返さないよう訴えている。