儀間比呂志さんの熱き思い
◆沖縄の『こころ』-追悼 大田昌秀と儀間比呂志展を終えて  
ボランティア 野田 隆稔            

                                           
 

 私が儀間比呂志さんに魅了されたのは、知人から貰ったたった1枚の版画の絵葉書からでした。色彩の美しさ、豊かな少女の顔の表情に引き込まれました。儀間さんについてはこの葉書きを貰うまで、全く知りませんでした。ネットで調べると、京都で儀間さんの版画展が行われていることを知り、見に行きました。時間が経つのも忘れて見続けていました。

 儀間さんは1923年、沖縄県那覇市に生まれました。幼少のときから絵を描くことが好きでした。1940年、17歳の時に沖縄を出て、日本統治下の南洋諸島のテニアン島に渡ります。そこで、木彫を学びます。1943年、沖縄に帰り出征し、海軍に入隊します。22歳の時、横須賀で終戦を迎えます。占領下の沖縄へ帰郷できず、大阪に住みます。
 1946年、大阪市立美術研究所で5年間洋画を学び、版画家上野誠(1909~1980)さんに師事し、木版画を学びました。

展示室

 儀間さんは長い間、沖縄を離れていました。1956年、沖縄に帰り個展を開きます。ここから、儀間さんは沖縄を描くようになります。美しい沖縄(琉球)の歴史・風物・民話(『赤いソテツの実』『鉄の子カナヒル』等々)や、戦後を逞しく生きる市井の人々、闘う沖縄の人々を描きました。
 儀間さんは『沖縄懸史第10巻』のなかで、「わたしたちが味わったあの地獄絵図はどんな小説にも映画にもあらわすことができない」という文章に出会い、沖縄いくさ物語三部作(注1)等々の沖縄戦の絵本を描くようになります。

展示室

儀間さんの版画は沖縄の人たちの喜び、優しさ、悲しみ、怒りの表情が巧みに描かれており、見る人の心に沁みとおります。彩色も紅型の伝統を取り入れ、鮮やかです。黒一色刷りも陰影があります。大江健三郎氏は「かれの絵の沖縄的な美しさ…彼の沖縄的な怒りの鋭さ、熱さはどうにもさけがたいものとしてつきささってくる」と書いています。(注2)
 儀間さんの作品には、沖縄と本土の間の精神の隙間を埋めようという願いが込められています。

 2017年、儀間さんは大阪で亡くなりました。
 この年になっても、一人の人の作品に感動し、共感できる感性が自分の中に残されていることを知ったのも新しい発見でした。

 

注1 沖縄いくさ三部作 『りゅう子の白い旗』『ツルとタケシ』『みのかさ隊奮闘記』
注2 「真に沖縄的画家」大江健三郎『儀間比呂志の版画沖縄』に収録 講談社刊

 

<来館者アンケートから>
○企画展の沖縄の「こころ」を中心に見させていただきましたが、非常に見応えがありました。儀間比呂志さんの「もうたくさんだ」のおばあの表情には、胸にせまるものがありました。あの時代のあの思いがうすれてきている現在、多くの人に見てもらいたい、戦争の真実を伝える表情!地元に帰って宣伝します!(67歳女)
○儀間比呂志さんの絵を見て、沖縄の悲しみが伝わってきました。私は全く戦争を知らずに生きてきましたが、幼くして戦争にあわれた「ツルとタケシ」のような悲しい体験をこれからの日本が二度とすることがないようにと願います。(53歳男)
○版画作品は視覚的に訴えてくるものだったので、入っていきやすかったです。あまり沖縄戦などテーマにした作品を見る機会はないので、いい機会になりました。(21歳女)
○2回目の訪問で前回見れなかった展示に気づけたり、今の日本をとりまく状況と重ねて考えてみることができました。大田昌秀氏の沖縄のこころ、儀間比呂志氏の版画から伝わる戦中・戦後の沖縄について、もっと広く深く知る必要を感じました。差別と偏見、人権侵害―日常にもひそむ問題の行きつく所が戦争なのかもしれません。(43歳女)
○儀間比呂志さんの版画をみて、ハンセン病についても興味をもちました。戦争体験者が少なくなっている今、私たちの世代が二度と同じあやまちを繰り返さないように平和への責任を感じました。(21歳女)
○沖縄の「こころ」を観るために来ました。米朝会談が少しでも歩みよれた事は一歩ずつ平和に向かっていると感じます。大田昌秀元知事の業績を改めて知ることができました。儀間比呂志さんの版画は暗く悲惨な物語を明るく美しく描いていました。猫のミュージカルがあるなんて思わなかった。?(70歳男)