《原爆の図》と母子像
◆夏の特別企画「高校生が描くヒロシマと丸木位里・俊「原爆の図」展によせて  
ボランティア 丸山 泰子            

                                           
 

 ピースあいちに初めて《原爆の図》が来たのは、2012年夏でした。あれから6年がたち、原爆の図展も今年は、早4回目、6作目となります。今年は、再び夏の開催となりました。埼玉県の原爆の図丸木美術館からやってくるのは、第11部《母子像》です。
 今回メルマガで《母子像》を紹介することになり、改めていろいろ調べてみて分かったことや、考えたことなどを書いてみたいと思います。

展示室

丸木位里・俊「原爆の図」第11部《母子像》(1959年)丸木美術館蔵

 《原爆の図》は、広島出身の水墨画家丸木位里(1901-1995)と北海道出身の油彩画家丸木俊(1912-2000)夫妻が1950年から、32年間にわたって原爆の惨状を共同で描いた15部からなる連作です。
 その連作は大きな反響を呼び、国内各地で展覧会が開かれ、やがて世界20カ国以上をまわる巡回展が行われました。丸木美術館学芸員岡村幸宣さんの調査によると1953年末頃までに、少なくとも全国170カ所以上で開催され、170万人以上の人が観たことがわかったそうです。
 最近では、2015年に米国の3会場で6作品を展示、2016年秋からはドイツ・ミュンヘンで開催された企画展に2作品が招聘されています。

 第11部《母子像》は、1959年に発表されました。第10部《署名》から3年ぶりの新作でした。共同制作ではなくほとんど俊が描いたといわれています。この間、夫妻に何があったのでしょうか。

 

 事件は、1956年に起こりました。世界巡回展の旅の途中、悲しい知らせが夫妻のもとに届きました。東京の留守宅で位里の母スマが、夫妻が信頼していた青年に殺されたというのです。二人は、《原爆の図》を描いたことを後悔しました。特に最愛の母を失った位里の苦悩は、大変なものだったようです。再び俊と共に《原爆の図》に向かうまで10年以上の歳月がかかりました。この時期のことを丸木美術館の岡村学芸員は、「原爆の図の歴史の中で迷いの時期だった」(丸木美術館学芸員日誌)といいます。
 私が興味を引かれたのは、事件の2年後に刊行された俊の自伝『生々流転』の「あとがき」で位里が、「原爆の図をかくのではなかったと思っていますが、これもかいたものはしかたがありません。二人は夫婦になるのではなかったとおもってもしかたがありません。帰らぬ母は、どんなになげいても、(中略)帰ってはまいりません。」と書いていることです。これを読んだ俊は、女としてどんな気持ちだったのでしょうか。

 

 傷心の日々を送る中で夫妻が再び《原爆の図》を描こうと決意したきっかけは、1959年、高野山成福院摩尼宝塔に《原爆の図》の奉納を依頼されたことでした。その時のことを俊は、次のように語っています。「原爆の図10部をかきあげたあと、私はもう描くのがいやになり、しばらくやめていましたが、高野山の摩尼宝塔(まにほうとう)に原爆の図を奉納するよう依頼され、これを描いているうちに、私はやはり原爆の図をつづけて描かなくてはいけない、という気になったのです。さきの10部に続いて、今描いているのが11部になります。このテーマも母と子です。」
 母と子は、俊にとって《原爆の図》の原点とも言えるテーマだったようです。そして、3年ぶりの新作として発表されたのが第11部《母子像》でした。高野山に奉納された《原爆の図》のタイトルは、《火》と《水》。15部連作の同名の作品とは、サイズも構図も異なりますが、いずれも母と子の姿が中心に描かれています。実は、高野山の2作品もほとんど俊が描いたといわれています。改めて二つの《火》と《水》を比べてみました。そして、気が付いたことがあります。題名は同じでも、そこに描かれている母や子の姿は、同じではありませんでした。高野山の《火》には、火の中から我が子と必死で逃げようとする母の姿、《水》には、息を引き取ろうとする人に水を与えようとする少女達の姿が描かれ、第3部《水》に描かれた「絶望の母子像」はありませんでした。
 俊は、高野山で原爆の絵と向き合いながら、今度は、少しでも「希望の母と子」の姿を描こうとしたのでしょうか。第11部《母子像》は、高野山の2作品と深くむすびついた作品だと思いました。また、この作品には高野山の作品と同様、少女達の姿が多く描かれています。それは、俊のどんな思いからでしょうか。
 2015年丸木美術館で「発掘!知られざる原爆の図」が開催され、高野山の2点も展示されました。今後15部以外の《原爆の図》の研究も進められるようです。

 絵本『ひろしまのピカ』(1980年)は、俊にとっての《原爆の図》の最終バージョンといわれている絵本です。その表紙絵には、子どもを脇に抱え、傷ついた夫を背負って、地獄の焔(ほのお)に立ち向かう母親の姿が描かれています。夫が描かれているので、厳密には母子像とはいえないかも知れませんが、俊が最終的に描きたかった母親像(小沢節子は女性像と書いていますが)だったように思います。
 私は、俊の『ひろしまのピカ』の表紙絵を見ながら、いわさきちひろの『戦火のなかの子どもたち』の「焔のなかの母と子」(1973年)を思い出していました。俊とちひろは師弟関係にありました。昨年ピースあいち10周年特別企画として開催した「ちひろ展」でピエゾグラフによる「焔のなかの母と子」が展示されましたが、この絵について夫の松本善明は、次のように書いています。「ちひろの絵のなかでこんなに厳しい顔をしたお母さんはこれだけです。これは侵略戦争に対する怒り、罪のない子どもがころされることに対する激しい怒りが表現されています。」
 私は、二人が描く母の姿が深いところで繋がっているように思いました。

 
展示室

ピースあいちにある「嵐の中の母子像」
作:本郷新

 ところで、ピースあいちには、サイズは小さいですが、広島の平和公園にある本郷新の「嵐の中の母子像」(1953年)と同じ像が常時展示してあることをご存じでしょうか。
 「胸に乳飲み子を抱きかかえ、背にもう一人子どもを背負って、立ち上がろうとする母子の必死の姿」が表現されています。たくましい母親像です。この機会にこちらの母子像も是非ご覧になってください。

 

 俊は、「女絵かき」として女と母親の立場から平和を訴えました。子どもを産まなかった俊でしたが、第1作《幽霊》で妊婦像のモデルとなったとき、「母の心が今、わかるように思えます」と語っています。この夏は、《母子像》にこめた俊の思いに向き合ってみたいと思います。

 7月29日には丸木美術館学芸員岡村幸宣さんのギャラリートークがあります。《母子像》についてどんなお話が聞けるか今からわくわくしています。多くの皆様のご来館をお待ちしています。

〈参考文献〉
小沢節子『「原爆の図」描かれた〈記憶〉、語られた〈絵画〉』(岩波書店 2002)
岡村幸宣『《原爆の図》全国巡回 占領下、100万人が観た!』(新宿書房 2015)
岡村幸宣『《原爆の図》のある美術館 丸木位里、丸木俊の世界を伝える』(岩波ブックレットNO.964 岩波書店 2017)
原爆の図丸木美術館図録『原爆の図』(四訂新版 2010)
一宮市三岸節子記念美術館図録『生誕100年記念 丸木俊展』(2012) 
丸木俊『ひろしまのピカ』(小峰書店1980)
岩崎ちひろ『戦火のなかの子どもたち』(岩崎書店 1973)
松本善明『ちひろ 絵に秘められたもの』(新日本出版社 2007)