戦時下の防空法 - 企画展「名古屋空襲と戦傷者たち」に寄せて      
運営委員  金子 力



 戦争の歴史は大量に殺人や破壊ができる兵器の開発の歴史でもありました。とりわけ第1次世界大戦で出現した航空機は、これまでの戦争の姿を大きく変えることになります。
 それまでは訓練を受けた兵士が戦場で武器を持ち、敵国の兵士と戦うというものでしたが、航空機による空から大量の爆弾・焼夷弾の投下は武器を持たない大勢の一般市民を短時間で大量に殺傷、都市を壊滅させる戦争へと変えていきました。

 日常生活を送っていた街が一瞬のうちに戦場となり、戦闘員と非戦闘員の区別のない無差別の大量殺戮が行われるようになると、武器を持たない市民は上空から投下される爆弾や焼夷弾を避け、目標となりそうな都市から避難するか、間に合わない場合は頑丈な防空壕に逃げるなど家や財産を失っても生命を守ることしかできなくなります。

 

 空からの攻撃を防ぐために名古屋では1941(昭和16)年8月に敵機を撃ち落とすための高射砲部隊が配置されました。
 その名古屋防空隊の主任務は、
①熱田神宮
②港・熱田・千種地区の軍事施設・軍需工場
③名古屋城付近の軍事施設(第三師団司令部など)・官庁(国の機関・県庁・市役所など)
を守ることでした。
 敵機を爆撃開始前に撃墜するという任務でしたが、高射砲の射程距離を越える高高度からの攻撃や夜間の攻撃を防ぐことはできませんでした。また、小牧や清州の飛行場から迎撃のため戦闘機がB29に向かっていきますが、B29の高度と速度に対抗することは困難で、結果として米軍の空襲を止めることはできませんでした。

 

 撃ち落とすことができなかった敵機が焼夷弾などを投下して火災が発生した場合に備えて、消防体制も強化されました。空襲が始まる1944年12月には消防ポンプ車は近辺の都市から102台の供出を受けて全体で240台となり、306人(1939年当時)であった消防署員も2000人と増員されました。消防ポンプ車の配置は市内全13区の消防署と出張所に配置され、重要軍需工場30カ所には優先的に臨時出張所が設置されました。しかし、大量の焼夷弾が引き起こす火災を消火することはでませんでした。

 
展示室

陸軍指導による啓発ポスター
「防空図解」(昭和13年6月) 
企画展展示中。

 こうした軍と官による防空体制の以前から市民には防空の義務が課せられていました。1937(昭和12)年に「防空法」が制定されます。重点が置かれたのは「灯火管制」と「防空訓練」でした。
 「灯火管制」とは夜間上空の敵機に地上の建造物の存在を隠すために電灯の光を漏らさないようにすることで、そのための電球・遮光用カバーなどが家庭で用意されました。少しでも明かりが見えたら注意を受け、違反者には300円以下の罰金が科せられることになりました。米軍は偵察機の写真から都市ごとの地図を作り、緯度経度で目標の位置を確認、夜間の灯火管制には照明弾を投下して攻撃を実行しました。

 1941(昭和16)年に「防空法」は改正され、「灯火管制」の違反には1年以下の懲役または1000円以下の罰金ときびしくなり、「都市からの退去禁止」(軍需工場の生産活動や都市機能の維持のため)と「空襲時の応急消火義務」(持ち場を離れずに消火活動に参加する)が追加されました。
 実はこのことが空襲時の死傷者を増やす結果になったと言われています。

 

 1944年9月から1945年6月まで警視総監を勤めた坂 信弥氏は東京大空襲の回想を次のように綴っています。

 

 「さて、私はここで忘れることのできない痛烈な思い出を記さなくてはならないであろう。これは我が生涯における最大の痛恨事であった。
 そのころ東京はすでにB二九の空襲を受けていたが、まだその数は二機、三機と少なかった。私は空襲があるたびに真夜中でも現場におもむいてその消火の状況を見回っていた。しかし、水の出ぐあい、消防自動車のかけつけ方から見て、私はB二九が大挙襲来した場合は手のほどこしようがないことを知った。
 町では消火のためにはあくまでも踏みとどまることを前提として防火演習が続けられていたが、私は場合によっては都民に避難命令を出さなくてはならないと思っていた。(中略)
 私の不吉な予感通り、その夜おそくB二九の大編隊が東京の下町一帯を襲った。防火を放棄して逃げてくれればあれほどの死人は出なかっただろうに、長い間の防空訓練がかえってわざわいとなったのだ。また、私が思った通り、事前に退避命令を出すよう関係方面と協議していたら、あのように多くの犠牲者は出さずにすんだろうに……私のほかは誰もがそういう事態を予想する人がなかっただけに、よけい悔やまれる。全くあい済まないことをしてしまった。(坂 信弥『私の履歴書』日本経済新聞社1963年)

 

 こうした「防空法」体制下の中でも、大垣市では岐阜空襲の惨状を目撃していた少年兵が火災から逃げようとする市民を止めずに、軍紀に反して逃がしていたことが71年ぶりに分かりました。その結果、岐阜市街地空襲では800人以上の犠牲者が出ましたが、大垣市街地空襲では50人と少なかったといいます。(『中日新聞』2016年11月8日) 新聞記事はこちらから。  

 戦時の防空法はなぜ市民を守ることができなかったのか、戦災で死傷した人々のうち民間人への補償はどうなったのか、ピースあいちでは戦災傷害者の救済を生涯訴え続けた杉山千佐子さんの足跡をたどり、外国との比較などの展示を2月27日から5月19日まで開催しています。