父・新村猛と治安維持法◆新たな資料の発見  
ピースあいち会員 原 夏子          

                                           
 
絵はがき

「治安維持法違反・被告人・新村猛」と表書きした2冊の厚い予審調書 

 3年前の2014年秋、亡き父が住んでいた家の書庫の奥から「治安維持法違反・被告人・新村猛」と表書きした2冊のぶ厚い予審調書を発見した。父の逮捕は今から80年前、私が4歳の時で、同じ町内に住んでいた家から表側にあった祖父母の家に引っ越した時、人形の乳母車を押して行った記憶しかない。幼い私は“父は病気で入院した”と聞かされていた。
 以来私は“父の受難は一体何だったのか”を検証する必要に迫られ、父の書き遺した文書や予審調書とその他の資料を読み込み始めた。

  

 それらをまとめてみると次のようになる。
 1937年当時、新村猛33歳。満州事変で衝撃を受け、思想の根底をゆさぶられ、反戦平和の深い願望を抱く。父・新村出のヨーロツパみやげの雑誌『ヨーロツパ』誌上でロマン・ローランの文に感動し、反戦・反ファシズムの活動を知る。滝川事件をきっかけに、学問と思想の自由を守る共通の思いから、人文系の友人と『美・批評』を再刊、後に『世界文化』と改題して発行を続ける。メンバーにとって大切だったのは、反ファシズムの旗の下での西欧知識人・作家の行動であり、フランスやスペインにおける人民戦線の勝利であって、そうした事実を日本の知識人と、学生に知らせることであった。すでに非合法化されていた共産党との接点はなく、無党派の仲間の自発的な文化活動だった。
 しかし、1935年7月から8月にかけてモスクワで行われたコミンテルン第7回世界大会で、人民戦線運動の戦術が採択された結果、全ての活動がこれと結び付けられる危険はあると思っていた。

 

 日本の思想取締当局は日中戦争の始まった年1937年の秋に、治安維持法(共産党弾圧法)の拡大解釈、そして合法左翼・反ファシズム人民戦線への適用を思いついた。
 まず、1937年8月、京都では小さな文学雑誌「リアル」の発行編集者が検挙された。これが治安維持法違反第1号で、『世界文化』同人検挙は第2号。いずれも改悪法の先取りだった。

●1937(昭和12)年11月8日、猛は京都市内の自宅で突然警官数名に寝込みをおそわれ、警察署へ連行された。連行された五条署に、同日、中井正一、真下信一氏も逮捕・連行された。三人同時検挙であった。まさかと思った治安維持法違反と判明、3人で励まし合ったため、猛はすぐに松原署に移された。
●取り調べはまず小林陽之助についてであった。小林はコミンテルンの指令を日本共産党に伝えるため派遣され、帰国潜入した人だった。『世界文化』誌の周辺にいた大岩誠、清水三男、禰津正志の3人が小林と接触したかを問われた。小林本人と全く面識がなく3人との関係も知らなかったため何の情報にもならなかった。
●松原署から堀川署に移される(雑居房)
 大学当局の要請により父・出が同志社予科の教授他の教職を辞任するよう勧める。被疑者であって、犯罪者でなく有罪判決まで辞表を書く必要なしと口惜しかったが、妻子を両親に預けている弱みで承諾する。
●昭和13年11月下旬 起訴 西陣署(未決檻の独房)  太秦署(京都地方裁判所、南辺の拘置所)
 共産主義者と認めた上、転向しろとの精神的拷問に耐え抵抗し続ける。が、早く帰宅する方が賢明と判断し、罪を認める手記を書く。係官に何回も書き直しさせられ4カ月か5カ月かかる。約1500枚。

 

 予審終結決定書の一部は次のようである。

       

   『昭和十年一月末頃…真下信一、中井正一外数名ト相謀リ従来発行シ居リタル左翼理論雑誌「美・批評」ヲ改題シテ同「世界文化」ヲ創刊シ、且従来「美・批評」編輯経営ノ指導機関タリシ美・批評研究会ヲ改組シテ「世界文化」ノ合評会ヲ兼ネタル共産主義理論及ビ戦術ノ研究機関ト為シ、以テ共産主義ノ普及宣伝二依ル日本共産党ノ拡大強化ヲ企画スル二至リシガ、更二同年半頃フランス二於テ…所謂人民戦線運動ガ展開ヲセラレ着々成功シテ居ル事実ヲ知リ、次デ同年末コミンテルンガ同年夏ノ世界大会二於テ右人民戦線運動ヲ重要戦術トシテ決定シ日本共産党モ亦之二従フコト為リタル事実ヲ知ルニ及ビ右運動方針二付益々確信ヲ昻メ爾来右美・批評研究会ヲ中心トシテ広汎ナル共産主義運動ヲ展開シ、因テ日本共産党ノ戦術ヲ修正セシムルト共二大衆二共産主義思想ヲ浸透セシメ、戦時之ヲ人民戦線二参加セシムルコト二依リ同党ノ拡大強化二資セルコトヲ企画シ…」

     

 調書と一緒に残されたM弁護士のメモにはこうある
・日本共産党二付テハ一向二認識ナシ。何人ガ組織シ、何人ガ主動者ナリヤ。何所二本部アリ、何人ガ運動シテ居ルヤ知ラズ。
・意図ハ全部アトヨリ付加エラレタルモノニシテ其当時存在シタルモノ二アラズ。

 

 裁判では全て否認したにもかかわらず、無理に書かされた手記に基き、全て共産主義運動であったことは明白だが転向が明らかとして懲役三年 執行猶予五年の判決が下り、釈放された(帰宅は1939年8月15日)。勾留機関一年十か月。公民権停止、保護観察下の生活は敗戦まで続いた。
 予備調書と一緒にあった資料は
一、 新村猛弁護の手順(M弁護士メモ)
一、 出の手による「新村猛」父祖略誌
一、 新村出筆上申書
一、 M弁護士の新村猛接見、聞き取りのメモ
一、 新村猛の留置所から家族宛書簡よりM弁護士の抜き書きメモ

 出の書いた上申書は巻紙に毛筆で書かれた漢文調のもので、「今般愚息猛こと容易ならざる忌諱に触れ其筋の御手数を煩はし遂に近く御明断を仰がんとするに立至り候は、小生父親として此上なき不行届の結果に之有 教訓監督の周到厳厲ならざりしを顧み慚愧身の措く所を知らざる次第に御座候」で始まり、「其上は小生の余生の主力を彼レの善導及監督の為に竭くし再び今般の如き問題を惹起せしめざる様致すべきは勿論…先づ修身斎家以て忠良の臣民たらしめ漸時皇道の本義に循(したが)ひ学問の正路を進ましむる様極力化育の努め可申候」とある。息子のために力を晝した父親の姿がよくわかる。

絵はがき

「予審調書」と原さん

 その祖父・出の「愛孫日記」の8月15日の頁には、次のように記されている。
「夏子 最もよろこび、まちわぶること限りなし。いそいそとして門を出入す。夕ぐれにもなりゆけば、伴ひて鞍馬口どほりのかど、門前どおりのかどにて 共に待ちわびゐれども、なおみえず。家に入りて、とかくいへるに、あちらのヲジチャンのうちではないかというものもあり、今度は皆をふくめて、夏子、徹の二人に相同伴してゆかしむ、日くれしのち、ヲジチャン先導のすがたにて帰宅す。おととし十一月八日のあさより一ヶ年と十ヶ月ほどなり。一家中どよめき限りなし。夏坊「和尚サンみたいだ」とうちわらふ。五分刈りあたまの異様なるを評してなり。徹坊は全くわからず、ただ怪しみつつも、にこにこせるのみ。灯火の団欒と会食。つづいて星の下の回顧談に夜を更かす」

 父帰宅後、時を経て日本は戦争に突入。小学生になった弟は学校ですさまじいいじめにあったが、一切その事を家族には言わなかった。長じて中国児童文学の研究者になった弟が1975年にある雑誌に書いた文で初めて知ることになる。

『わたしには、国民学校に入って以後敗戦まで楽しかったという思いではまずない。いじめぬかれたという記憶だけがのこっている。ひどいあだ名をつけられたり、教壇で猿のものまねをさせられたり、黒板消しで体中まっ白にさせられたりはまだがまんができた。たとえばわり箸の先に針をつけた武器で傷痕をのこさないために髪の毛の頭をつつかれるようないじめ方など、その耐えがたかった痛みは今なおそれこそ脳裡に残る。私の他にも、いじめの対象とされた子が二人いた。それは身体障害児だった。ひどい話だが、身体健全な自分が、なぜいじめられるのか、そればかり考えていた。理由は後にわかった。
 わたしの父は、「治安維持法」で逮捕されたことがあり、わたしは“国賊”の子だったのである。そして、いじめる音頭をとったのはえらい「帝国軍人」の子だった。だから先生は黙ってそれを見過ごした。ただ看過しただけではない。わたしは当時屈辱に耐えかねて多勢を相手にはかない抵抗を試みたが、その度ごとにふくろだたきの目にあったのにかかわらず、その上必ず先生から罰をくらった。抵抗したのがいけないというわけである。さらに、先生はわたしの試験によく「まちがって」低い点をつけた。そしてその「まちがい」を正しにいくと「これはおまえが自分で直したんだ」とこともなげにいいはなった。戦時下の先生には絶対に「まちがう」ことなどないのである。正しい答えを書いたわたしの方が「こすいやつ」「先生までごまかす人殺し」にされて、いじめる種を増やしたのは、必然のなりゆきだった。
 その先生が、ある日校長にともなわれて私の祖父に会いにきた。ちょうど学期末で通信簿をもらったところで、日ごろおとなしい母が、めずらしく腹をたてていた。「試験の点がいいのに、どうして通信簿の点がこんなに悪いのかわからない。先生にいう」というのである。わたしはいっしょうけんめい母を止めたが、先生の訪れの機会にそのことを言ったらしい。父のことはともかく、祖父は周囲から一目おかれる名の通った学者だったせいか、母の言動は思わぬ効果をもともなってあらわれた。つまりその次の学期はじめ、通信簿がそれほど悪かったわたしが副級長に抜てきされるという一事がおこったのである。「猿が級長!」「人殺し副級長」とはやされながら。』