ピースあいちとともに10年◆戦争体験語り事業一筋の10年  
運営委員 竹川 日出男           

                                           
 

 ピースあいちが誕生する大きなきっかけとなったのは、愛知・名古屋に戦争資料館を建設しようという運動の過程で、2005年4月末から5月初めにかけて開催された「平和のための戦争資料館展」(以下「ミニ資料館展」という。)であった。ここでの加藤たづさんとの運命的な出会いから「ピースあいち」は誕生した。このことはボランティアの田中十四子さんが当メルマガ10月号で書いておられる。
 私とピースあいちとの接点は、このミニ資料館展の協賛企画として開催された「今こそ平和のうたを」と題したチャリティコンサートであった。
 私は大学時代から男声合唱に興じてきたが、ちょうどその合唱団の創立50周年記念演奏会を終えたところ、大学同期生の野間さん(現ピースあいち館長)から、このチャリティコンサートに協賛出演を依頼され出演したことが、今から思えば、私がピースあいちの一員にさせていただく契機であった。蛇足ながら、このコンサートで歌った谷川俊太郎作詞・武満徹作曲の「死んだ男の残したものは」の一曲は、今でも私にとって懐かしい思い出の曲となっている。

絵はがき

100歳の誕生日を前に東郷町立兵庫小学校で
戦場体験を語る上野三郎さんとともに
(写真右が竹川さん。2013年11月22日)

 さて戦争体験については、私の家族は両親を含めて一家10人すべてが戦争に巻き込まれ、多くの同胞とともに悲惨な体験を負わされたが、私はそれを理解し、背負うには幼すぎた。そしてその後もなぜか、戦争について特別な知識をつけることはなかった。
 野間さんから声をかけられ、ピースあいちの一員とはなったものの、就職以来、仕事一辺倒の40年余を過ごしてきた私は、ピースあいちで役立てることは何かと思いをめぐらせる有様であった。
 そんな折、ピースあいちが開館して2年後の2009年、愛知県・名古屋市設置の「戦争に関する資料館調査会」から、県下の小中学校へ戦争体験者の語り手を派遣する事業に協力してほしいとの要請を受けた。迷いのあった私にとって、こうした仕事を通じて県・市との繋がりを持つことは何の抵抗もなかったし、体験者と学校との調整というような任務は私の得意とする分野でもあり、役に立ちたいとの思いを満たす道でもあった。

 これを契機に早速「ピースあいち語り手の会」が組織され、以来8年余、多くの語り事業を実施してきた。2009年度から2017年度の今日に至るまで、事業に従事した語り手の延べ人数はおよそ650人、体験を聞いた聴衆は4万人を超えた。戦争体験者のお話を聞いた子どもたちの感想文の中に「戦争は二度とおこしてはいけない。戦争はぼくたちが止める」と書いてくれた文章を見つけると、思わず快哉の声が出る。

絵はがき

子どもたちと一緒に

 戦後すでに72年が過ぎ、体験者は確実に減少している。こうした状況を踏まえて、先ごろピースあいちに「戦争体験語り継ぎ手の会」が発足した。新たな人たちの手で、「戦争は二度とおこさない」という活動が力強く引き継がれることを願ってやまない。