2017年夏 戦争体験語りシリーズから           
   



絵はがき

●8月1日(火)
 今村 實さん 
 1933(昭和8)年生まれ 84歳 
 「空襲と疎開」

 小学6年生だった1944年、北区から母親の出身地安城市へ疎開した。12月には、東南海地震、翌45年1月には三河地震を経験した。三河地震では、祖母が家の下敷きになって亡くなった。私はつぶれた家の中から助け出された。家がなくなり、中学生になって北区へ戻ったが、名古屋城が焼失した5月の名古屋大空襲に遭い、焼夷弾の雨の中を妹弟の手を引いて逃げた。神さまがくれた命。この経験を後世に伝えていきたい。(瀬戸)

絵はがき

●8月2日(水) 
 萩原量吉さん 
 1940(昭和15)年生まれ 76歳  
 「ゾウ列車に乗って」

 私は小学校3年生の1949年、三重県の津から東山動物園に遠足に来て、戦争を生き抜いた象に乗せてもらい、象の背中に生えている硬い毛で尻がひどく痛かったのを覚えている。戦災で猛獣が檻から放たれることを恐れ、殺処分されていった状況のなか、この象を命がけで守り抜いた人たちの勇気と努力に感謝し、戦争はいやだという思いを強くした。  日本はいま再び軍備の増強中であるが、予算は平和のために、戦争・テロをなくすために使うこと、ゾウの背中を体験した者として平和を守り続けることを願う。(林 収)

絵はがき

●8月3日(木) 
 河村廣康さん 
 1923(大正12)年生まれ 93歳  
 「シベリア抑留」

 21歳で入隊。翌22歳から24歳(1945年10月~1947年5月)までシベリアに強制抑留。バイカル湖西の収容所で材木を伐採し、バム鉄道敷設に従事しました。冬はマイナス20度、極寒はマイナス60度越え、食糧は不足、薬もない中で多くの若者が亡くなっていきました。今、テレビで大食い競争やケーキや玉子をぶつける映像を見ると腹が立ち、もう情けなくなる。この一切れでもいい、食べさせてやりたかった。「腹一杯喰って死にたいな」と言って死んでいった戦友を見てきましたから。お前たちがつくってくれた平和で生きている。お前たちのお墓はどこにあるかも分からない。今でもシベリアにいる。まだ遺骨は帰ってきていない。私は骨皮になっても帰ってきた。オレは生きていていいのかなと思う。(桐山)

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●8月5日(土) 
 松原実智子さん 
 1933(昭和8)年生まれ 84歳   
 「疎開体験」

 名古屋市東区に曾祖母、両親、弟の5人家族で生活。戦争が激しくなり、小6の時、祖母がいた足助に縁故疎開した。縁故のない同級生たちは近郊のお寺に集団疎開をした。ある日、東区の実家に帰ったら母は居らず、父方の親戚がある瀬戸まで20数キロを一人で歩き夜中にたどり着いたことが忘れられない。中学は豊田市の寄宿舎から通ったが、蚤(のみ)とのたたかいであった。1945年8月15日の終戦の日、校庭に集められ玉音放送を聞いたが、良く分からず校長先生が泣いていたのを覚えている。その後母と父が相次いで亡くなり、私の戦後は長く続いた。小学生の頃から本を朗読するのが好きだったのが俳優への道にすすむきっかけだった。(宮木)

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●8月6日(日) 
 石原隆さん 
 1926(昭和元)年生まれ 90歳    
 「ひろしま原爆」

 20歳の時、学徒動員で広島の東洋工場へ行き、被爆しました。8月6日、爆心地から5キロほどの工場の寮で横になっていました。突然、閃光と轟音。窓ガラスが爆風で全部吹っ飛びました。頭の上では、白い雲、光る雲が動いていました。何が起きたのか全く分かりませんでした。寮の治療室には、手を前に出し皮膚が垂れている人、横になっている人にはハエがたかっている…。なすすべもありませんでした。戦争は本当にむごく辛いものです。どんなことも鵜呑みにしないで、自分で考えて判断してほしい、そう願っています。(小田)

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●8月8日(火) 
 松下哲子さん 
 1934(昭和9)年生まれ 83歳    
 「旧満州・奉天市における戦中戦後の生活体験」

 奉天で生まれ、昭和16年小学校入学。ピョンヤンに疎開し終戦。奉天に戻りました。8月の奉天は、ソ連兵が多勢いて銃を持ち、撃たれた日本人が道に転がっていたり、国境を越え攻めてきたソ連兵から逃げた年寄りや子どもたちが力尽き、路上で死んでいました。死体を見るのが特別なことではない日々でした。今も消息不明な人達がいます。奉天から通常1昼夜のところ1か月かけて日本に帰ってきました。栄養失調のため、おできをつくって!
 「名前のある人間として生を終えられるようでなければいけない」と思っています。(加藤)

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●8月9日(水) 
 加藤照さん 
 1931(昭和6)年生まれ 86歳     
 「空襲と学徒動員」

 1945年、中学に入学してすぐ工場労働がはじまる。空襲が激しいし、部品が集まらないため仕事がなく、一同不満が募って近所のお寺に立てこもったことも。4月には日清紡績で飛行機の鋲打ち作業に従事。作業は簡単だったが、きつかった。農家の子だけが持ってきたお米の弁当が紛失する事件も起きた。7月、岡崎空襲で我が家は全焼。8月15日敗戦。仲良しの友達がその日満員の通学列車から落ちて亡くなった。ただ茫然として15日が過ぎていった。以降70余年。平和であることはありがたい。(水野)

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●8月10日(木) 
 中野 巖さん 
 1928(昭和3)年生まれ 89歳      
 「軍隊生活」

 16歳で志願して海軍予科練習生となった。軍隊では、何故自分が殴られているのか理由も分からないまま、毎日毎日殴られた。理不尽な命令でも命令は絶対服従で、人間らしさを奪い、人間を一つの方にはめ込む。人間らしい心を持っていては敵の兵を殺すには抵抗がある。人を平気で殺せるようにする。それが軍隊。今の憲法で人権尊重と言われますが、当時は人権など全くありません。今の憲法は大事にしていかねばなりません。(長谷川)

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●8月11日(金) 
 中野見夫さん 
 1939(昭和14)年生まれ 78歳       
 「熱田空襲体験」

 昭和20年6月、B29の空襲を受け、生死の中を生き抜きました。6歳でした。育ったお寺の境内は遺体の安置所に、本堂は生死をさまよう負傷者で一杯になりました。眠るように死んだ母親の横に上半身を失った赤ちゃんが置かれていました。子どもながらに悲惨さを深く感じました。きっとおんぶされた子どもに焼夷弾が直撃したのでしょう。戦後、学校で教える中身ががらっと変ったよと姉たちが話してくれましたが、怖い兵隊あがりの先生もいました。進学した近くの高校では、三年間運動場で釘拾いをしました。整備のためでした。人間が戦争を始めるなら、人間がやめさせられる。僧侶として不殺生を唱える立場からも強く思います。(桐山)

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●8月12日(土) 
 田邉登志夫さん 
 1928(昭和3)年生まれ 89歳        
 「軍隊生活」

 軍隊の裏の姿を知ってほしい。当時、男の子は軍隊に入ることが一つの憧れでした。私も軍隊に入ることに憧れ、15歳10か月で海軍に入隊し、3か月間の新兵教育を受けました。そこで受ける制裁は、特に厳しかった。上官の命令には絶対服従で、理不尽なことも受け入れなければなりませんでした。その後、普通科整備術練習生を終え、鹿児島県の国分航空隊へ派遣されました。特攻隊を送り出すときが特に辛く、「これでいいのか」と常に自問していました。皆さんには私の体験から、今の自分にできることを考えてほしいと思います。(白井)

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●8月13日(日) 
 平田和香さん 
 1940(昭和15)年生まれ 76歳         
 「満蒙開拓者の戦前戦後」

 国策「満蒙開拓」は、20年間で100万戸の人を送出し、日本が支配できる国を作ろうとしたものである。当時のキャッチフレーズは、満州へ行けば「一人20町歩の地主になれる」「王道楽土だ」というもの。しかし、実際は北緯47度の極寒の地で88%は中国人から奪ったも同然の土地である。敗戦時には、174万人のソ連兵が攻め込み、中国人からも襲われることになった。関東軍はいち早く逃走し、開拓団や居留民は置き去りにされ、言語に絶する苦難の逃避行を続けた。そのうえ、帰国しても戻っていく土地はなかった。(稲田)

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●8月15日(火) 
 望月菊枝さん 
 1930(昭和5)年生まれ 87歳         
 「勤労動員・空襲体験」

 1944年高等女学校2年(中学生)の頃、学業停止で飛行機の部品をつくる工場で作業をしていた。毎日毎日、機銃掃射を受け逃げ回っていた。危険ということで工場が学校の校庭に移転。大地震も二度も体験したが、被害状況は一切知らされなかった。ある日、空襲で防空壕に逃げ、さらなる警報の後、壕がつぶれ目の前に5mくらいの大きな穴が開き、そこいらにちぎれた手や足、人が倒れていた。その時42名の同級生の命が失われました。恐怖とか悲しみの感じはなく、頭がまっ白となり記憶がなくなっていた。先生方の記録をみて、ひとつずつ記憶を呼びさませている。二度と戦争はいやです。(松本)