「竹下景子さんと一緒に 朗読とおしゃべりを楽しもう!」に参加して  
ピースあいち会員  金子 貞子



加藤さんと堀田さん
 

 5月29日、「ピースあいち」10周年のボランティア班の企画で、名古屋にゆかりの深い竹下景子さん、天野鎮雄さん、山田昌さんの三人の方の「朗読とトークの会」に参加するという貴重な体験ができました。トークと朗読はもとより、その朗読にまつわるさまざまなことがわかったことも、私にとっては収穫でした。

加藤さんと堀田さん
 

 アマチンさんが朗読された杉山竜丸氏の「二つの悲しみ」は光村図書の中学3年の国語の教科書にも何年間か掲載され、私にとっては懐かしい作品でした。
 作者の杉山さんは、自らも負傷した終戦直後、復員局で遺族からの問い合わせの仕事に就き、毎日「あなたのお父さんは(息子さんは)戦死されました」と伝えなければならないことに苦しむ人でした。ある日、病気の祖父母の代わりに父親の安否を訪ねに来た7歳の少女が「戦死したジョウキョウ、ジョウキョウ ですね、それを かいてもらっておいで といわれたの」と精いっぱいの言葉で言う。こんな小さな子供が遺族の代表となって「状況」という難しい言葉を使って聞かなければならない時代とは何なのか…少女の気丈で切実な言葉に、卒業期の中学3年の生徒たちも揺さぶられて涙ぐんだ作品です。(アマチンさんには、「戦死したジョウキョウ・・・」という言葉を7歳の幼子のように読んでほしかったな~… なんて、いうとアマチンさんに失礼かな?アマチンさん、ごめんなさい!)
 随筆の最後は「どうなるのであろうか。私は一体何なのか、何ができるのであろうか」と作者の自問で結ばれている。以前の私はここまでしか知らず、通り一遍の「戦争の悲しい話」の域を出ていませんでした。
 しかし、アマチンさんの朗読の冒頭での「作者の杉山竜丸さんは夢野久作氏の長男で、陸軍航空技術学校時代には反戦運動にかかわっていました」という話は初耳でした。
 あとで調べてみると、復員局勤務を終えて、40代になってから「アジアとの共同」を願っていた父親久作氏の生前の言葉を思いおこし、旱魃のインドでユーカリの植林活動を始めたということです。国連本部からの資金援助を得ることができなかったので、私財を投じて緑化に尽くし、インドの人々から「緑の父」と呼ばれたということも、この朗読会の後で知りました。もし現職の時に知っていれば、卒業後の生き方を模索する生徒たちと共に考えることができたかもしれないのに…と悔やまれます。
 杉山氏の戦後の歩みは、「戦争の悲しみを見た者として、自分にはいったい何ができるのであろうか」という、あの随筆の最後の自問の文に対する答えを見つけ出す人生だったのだと思いました。のちの子どもたちに責任を果たすとはどういうことか。改めてこの作品が投げかける、大きな力を感じました。

加藤さんと堀田さん
 

 山田昌さんが選ばれた詩は、石垣りんの「崖」。1944年、民間人4000人が玉砕したというサイパン島の悲劇を描いた詩です。美徳・体裁・義理やら火だの男だのに追いつめられ、行き場がなくて絶望の果てにバンザイ クリフの崖から海へ跳ばなければならなかった女性たち。特に最終行の「どうしたんだろう。あの、女。」という言葉を読む、昌さんの声に、古今東西の戦争で犠牲になった女性達を思う気持ちが伝わりました。
 戦争(兵士)と女性とは、絶対に相いれない苦しく辛い関係。日本の戦前教育は弱い立場の女性に美徳だの体裁などと並べ立てて捕虜になるより自決を促し、命を散らすことを命じた。戦後何十年たっても、まだ崖と海との間にさまよう「一人ひとりの女」に、私たちがすべきことは何だろう。またもや、奇妙な美徳を振りかざして武器を増やしたい人達によって同じ過ちが繰り返されては、彼女たちの魂の成就は永遠に叶わない…。そんな思いで聞いた詩でした。

加藤さんと堀田さん
 

 最後は、竹下景子さんによる、父・竹下重人氏の手記「シベリア抑留の体験記」の朗読で、バイカル湖南西のイルクーツクへ送られた時の話でした。収容所では体調が悪くても技術を持つものは狩り出されて働かされたためトラブルが絶えず、竹下氏は「技術を持つ者はその技能を生かし、自分に適した仕事をすべきである」などと意見を言ったために反ソ連的であると睨まれることも…。しかし、やがて、選挙によって自治会の青年部長に当選し1~2カ月に一度、合唱、観劇の会や劇団の企画をし、大変な状況の中で精力的に力を発揮する人でした。
 1947年~48年に、いよいよ150名の帰国が許されることになった時も、自治会の委員が先に帰ってはまずいということで、竹下氏ら3人は帰国を辞退し、48年10月にようやく日本に帰国。しかし、今度は「竹下はシベリアで自治会委員をしてソ連と仲良くした」などと言われてののしられ、後の就職活動にも影響したとのこと。
 竹下景子さんいわく、「抑留中は最初の年も越せない体験者もいましたが、3年間の体験の中で、父が若い気持ちで乗り越えたところを読みました」という、3部作の最後の作品です。景子さんは幾分控え目に話されましたが、竹下重人さんが苦しい抑留生活の中でみんなをとりまとめたパワフルな姿が思い浮かびます。その重人さんは、帰国後は、弁護士として貧しい人たちのための弁護に奔走され、「ピースあいち」の設立にも関わられました。

加藤さんと堀田さん
 

 天野さん・山田さん夫妻はもちろんのこと、女優としての竹下さんの仕事の芯にも、父親譲りの社会を見つめる目があります。ドキュメンタリー映画「不思議なクニの憲法」の2時間にわたるナレーターもしかり、ハンセン病の朗読、WFP(国連食糧プロジェクト)などの活動の中にも…。さまざまなことを考えさせていただいた3人の朗読と、楽しくなごやかな名古屋トーク。参加者全員が、元気になり、充実した時間を過ごすことができました。この会を企画してくださった皆さまに本当に感謝しています。