2016年夏 戦争体験語りシリーズから           
   



 8月2日(火)~14日(日)、毎年恒例の「戦争体験語りシリーズ」が「ピースあいち」で開催され、「ピースあいち語り手の会」の方たちが日替わりで来館者のみなさんにお話をしました。語り手のお話を、「ピースあいち」のボランティアが報告します。
 また、今年の夏は、「愛知・名古屋 戦争に関する資料館」で行われた「戦争体験談を聞く会」でも「ピースあいち語り手の会」会員がお話をしました。

絵はがき

●8月2日(火) 
 橋本克己さん(81歳) 
 「満州開拓団」

 1935年(昭和10)年生まれ。昭和17年満州開拓団の一員として一家8人、新城から満州に渡りました。ツンドラ地帯で開拓、穀物を作り、牛馬を育てました。これで平和に暮らせると思った頃、大東亜戦争が勃発。父も召集されました。そんなある日、突然学校が閉鎖され、8月15日を迎えました。午前中までは日本が生殺与奪の権を握っていましたが、午後から逆転。積年の恨みからか、現地の人が暴走。夜毎日毎部落が襲われました。家畜から金品まで奪われ、少しでも抵抗すれば射殺。そこで治安のいいチチハルへ逃げましたが、今度は伝染病が待っていました。不衛生の極限状態、医者はいない。私は収容所で家族を皆失い、戦災孤児となりました。その1か月後、強制送還の命令が出て、わずか10歳ながら一人で帰国しました。   (稲田)

絵はがき

●8月3日(水) 
 江本繪門さん(79歳)  
 「空襲と学童疎開」

 昭和18年(1943)国民学校入学、このころはもっぱら絵ばかり描いていました。南方の戦地の兵隊さんに送った絵に対して11月に丁寧な返事が送られてきました。(お母さんが残しておいてくれた、この頃に描いた多数の絵、兵隊さんから送られてきた手紙などが回覧されました。)2年生のときに鶴舞公園の近くから覚王山近くの学校に転校しましたが、もし元の所に住んでいたらきっと空襲で死んでいただろうと親から聞かされました。昭和20年(1945)、3年生になったばかりの私たちは長良川の上流の小さな町のお寺に学童疎開をすることになりました。初めて親元を離れて暮らすことになり、心細くなって名古屋の方向を向いて泣き出す子供がいました。すると低学年の私たちが、皆一斉に声を出して泣き出してしまうという日が何日も続きました。不衛生であったのでシラミには悩まされました。その頃は「ヒモジイ、サミシイ、カユイ」の思いがとても強かったです。   (田中正)

絵はがき

●8月4日(木) 
 中野見夫さん(77歳)  
 「熱田空襲体験」

 1939(昭和14)年熱田区六番町で生まれ、育ちました。当時、実家の専光寺の境内は遺体の安置所となっていました。昭和20年6月の熱田空襲では、42機のB29が8分間爆撃し、2068名が死亡しました。遺体が専光寺に運ばれてきました。遺体はコチンコチンなので、たたいたり折ったりして役所の人が運んで行きました。背中に大きな穴があいている人、「水、水」とうめきながら死んでいった人。衣類や肉のこげた臭い、死臭の中で生活していました。1年生だったので記憶はあまりありませんが、見た目は無傷な母の遺体の横にいた上半身のない赤ちゃんの姿は、今でも脳裏に焼き付いています。戦争とはむごいものです。そして、亡くなった人たちにしてあげられることは、そのことを忘れないこと。それが一番大事であると思います。   (小田)

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●8月6日(土) 
 木下冨枝さん(80歳)   
 「広島での被爆体験」

 昭和20年8月6日、国民学校3年の時でした。爆心地から1.2㎞の自宅で被爆しました。
 窓から入ってきた閃光と爆風で、自宅に爆弾が落ちたと思いました。外に出ると周囲の家はことごとく潰れており、近所の親戚を救出。帰宅した姉は背中に大火傷を負い、皆で避難することにしました。途中、黒い雨に遭いました。避難先の庭では建物疎開の作業をしていた学生たちが被爆で焼けただれた体を横たえ、「水を」と訴えるその姿はお化けのようで恐ろしかった。父は水を飲ませてあげましたが、皆次々に息絶えていきました。小川で水を飲もうとすると、たくさんの遺体が浮いていました。   (乳井)

絵はがき

●8月7日(日) 
 田邉登志夫さん(88歳)    
 「軍隊生活」

 昭和19年6月、15歳で海軍に入隊しました。私だけではなく、級友たちも陸軍や海軍の少年兵を志願できる年齢になると、次々と受験しました。軍隊に入ることに憧れており、何の疑問も持っていなかったのは、国の政策としての教育の成果と言わざるを得ません。3か月の厳しい新兵教育を受け、軍隊というところは、人間的な感情を持っていたらやっていけない理不尽な場であることを思い知らされました。その後、飛行整備予科練習生として配属されましたが、戦況が悪化する中、練習機に乗って特攻隊に出される人を見送ることもありました。こんな戦争は二度とやってはいけない、武器をもたないことが最大の武器になるのだと、これからも訴え続けていきます。  (安井)

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●8月9日(火) 
 望月菊枝さん(86歳)     
 「勤労動員・空襲体験」

 当時、第三高等女学校の生徒で、兵器工場で働いていましたが、もろに空襲の標的になるので、学校の校舎を使って飛行機部品をつくっていました。校庭にはいくつもの防空壕がありました。あるとき逃げ込んだ壕から外を見ると、近くの壕が大きな穴に変わっていて、そこから人の腕が飛び出ていました。まわりの町並は消えていました。その直後の記憶は今もありません。次に覚えているのは帰宅途中、真っ暗な道でだれかが「助かったのか」と声をかけてくれたこと。その時、はじめて涙がでてきました。その後も芋の中にご飯粒が浮いているような食事で、ひもじい思いをしながらも「勝つまでは」とがんばっていたのに敗戦。この時わずか15歳の少女でした。  (加藤令)

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●8月10日(水) 
 河村廣康さん(92歳)     
 「シベリア抑留」

 関東軍の戦車部隊に所属していました。満州の奉天で終戦を迎えました。負けた悔しさより、生きて日本へ帰れると思いました。しかし、ソ連軍に連れて行かれたのはシベリアの収容所でした。抑留生活の大変さは真冬の気温が零下50度になることもある厳寒の地の重労働と飢餓でした。仕事は二人一組で30メートルほどの松の木を決められた長さに伐採することでした。10分ほどで手の感覚がなくなるのですが、ノルマ達成のため、作業は続けなければなりませんでした。食事は小さなパンとキャベツが2切れ入った塩味のスープ。毎日、腹と背中がくっつくような感覚でした。ヘビやカエル、野草を食べて飢えをしのぎました。飢えと寒さと重労働で多くの戦友が亡くなっていきました。戦後71年たっても、23歳のままシベリアに眠っている戦友のことが、今一番気にかかっています。 (東野)

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●8月11日(木) 
 中野 巖さん(88歳)      
 「軍隊生活」

 昭和19年9月、16歳で志願して海軍予科練習生となり、第二相模野海軍練習航空隊に入隊しました。そこで最初に言われたのは「おまえたちの命は鳥の羽より軽いものである」ということでした。毎日、理由らしい理由もなく木の棒で殴られました。今は憲法で基本的人権が保障されていますが、当時はそんなものはなく、特に軍隊では人権など微塵もありませんでした。人権を尊重していては、敵兵を殺すことはできません。人権をないがしろにすることで、人を殺す垣根を低くしていました。暴力による支配と命令に対する絶対服従で人間を一つの型にはめ込んでいきました。私語や笑い声は消えていきました。  (長谷川)

絵はがき

●8月12日(金) 
 萩原量吉さん(75歳)       
 「ゾウ列車に乗って」

 戦後の1949(昭和24)年、私が津市立高茶屋小学校3年生の時に、名古屋の東山動物園へ遠足に行きました。戦争が終って食べ物がなく、お腹がすいて楽しみもほとんどなかった子供たちにとって、東山動物園に行って象を見ることはどんなに楽しみだったことでしょう。幸運にも選ばれて象の背中に乗せてもらえました。象の背中は本当に高くて、背中の毛がとても硬く、お尻がシカシカと痛かったことを、今も忘れることができません。この時に撮った写真はすっかりセピア色になりましたが、私にとっては貴重な写真となりました。
生き残った象の事実が「ぞうれっしゃがやってきた」という絵本、合唱として全国に広まっていきました。私はその絵本や合唱によって、自分がその生き残った象に乗ったことを知ったのです。セピア色の写真とともに、象や動物たちを殺すような戦争が起きないことを願って、貴重な体験を語り続けます。  (吉田) 

絵はがき

●8月13日(土) 
 筧 久江さん(84歳)        
 「勤労動員・空襲体験」

 1931年満州事変の歳に生まれました。昭和19年、学区制になり、東片端の第三高等女学校に入学しました。国家総動員法で3年生以上は勤労動員。その後、私たちも勤労動員に行くことになりました。三菱電機で戦闘機の灯りの部品をつくりました。年が明け校長先生が軍需工場は危ないので、校舎を工場にするように提案し、学校は三菱の工場になりました。校庭には1.2年400人くらい入れる防空壕がいくつもつくられましたが、木の枠を並べ土をかけた簡単なもので、直撃を受けたらひとたまりもないと思いましたが、とても言う雰囲気ではありませんでした。
 1月23日の空襲で防空壕に直径10メートルの穴があき、42人が亡くなりました。それでも私たちは学校工場で仕事を続けました。生きた心地がしませんでした。3月の名古屋空襲で私たちの学校も工場も燃えました。私は、中津川を流れる落合川沿いにあった村の小学校の工場へ勤労動員され、そこで終戦を迎えました。   (浅井)

絵はがき

●8月14日(日) 
 平田和香さん(75歳)         
 「満蒙開拓団の調査研究」

 9年ほど前に愛知県から送り出した第9次三合東三河郷開拓団に参加した体験者9名から話を聞く機会があり、満蒙開拓団にかかわりを持ちました。知らないことが次々とわかり、それが怒りに変わり、伝えたいという気持ちに変わっていきました。
 満蒙開拓団は昭和21年に引き揚げが始まったので、今年は70年となります。当時世界恐慌のあおりを受け、農家の蚕業も打撃を受け、「生めよ増やせよ」との国策も相成り、国はとくに生活が苦しい農村から満州に27万人を送り込むこととしました。満州国の広大な土地をもらえるという触れ込みで渡った開拓団が手にした満州の土地は、実際は88パーセントが、中国人が耕した土地を取り上げたものでした。終戦とともにその地を追い出され、逃げまどいながら、開拓団の人々は実は自分たちが加害者であったと知ったのです。逃げ惑い極寒の中、命を落とす者も多かったのです。
 また、1945年8月9日、ソ連軍が中ソ中立条約を破り174万人の兵隊が押し寄せ、女たちは強姦を受けたまま帰国。国策として、400人から500人の女たちが堕胎させられたという事実は、今もって隠されたままです。   (浅井)

◆「愛知・名古屋 戦争に関する資料館」で行われた「戦争体験談を聞く会」でお話した会員のみなさん
 8月6日(土)水谷哲也さん(93歳)戦場体験/8月7日(日)井戸早苗さん(77歳)空襲体験/8月14日(日)森下規矩夫さん(78歳)空襲・疎開体験/8月16日(火)小島久志さん(83歳)疎開・空襲体験/8月17日(水)佐藤誠治さん(82歳)疎開・空襲体験/8月20日(土)今村實さん(83歳)疎開・三河地震・空襲体験/8月21日(日)小笠原淳子さん(84歳)疎開・空襲体験/8月23日(火)乾正男さん(83歳)疎開・空襲体験

■来館者アンケートから

戦争を知らない世代。子供の頃から受験戦争や就職戦争など「戦争」をいう言葉が簡単に使われている今、本当の戦争を知る。自分の目で見て、自分の耳で聞いたことはとても良い機会となった。(39歳男)

母につれてこられて、最初はめんどくさいな と思ったけど、今は来て良かったと思います。(11歳女)

最近の政治などに疑問を感じたり平和な未来に不安を感じることがあったので、苦しい体験をした人の意見や経験を聞いてたくさんの事をかんがえさせられました、もっと平和になるといいなと思います。(15歳女)

私は平和を作り上げるために何ができるのかずっと考えてきた。昨年夏は戦没者慰霊祭に出席したり、今年は昨日広島で核廃絶の署名活動を行いました、そして、今日お話をきいて真剣に平和について考えなければならないと改めて感じました。言うだけでなく、思うだけでなく、これからも行動にうつそうと思います、今、平和の中で生きていくことができているありがたさなど考えさせられました。今日を戦前にさせません。(17歳女)

アオキスーパーの帰りに「シベリア体験」の掲示を見ました。父と同じ大正12年生まれと聞いて、父を思い出します。4年前に亡くなりましたが、父もシベリア抑留者で、戦争が終わって4年後に帰って来たそうです。河村さんと同じでシベリアの話はほとんどしてもらえなかったので、話を聞きに来ました。私の子供も孫4人も戦争に行かせたくないですね。(58歳女)

田邊さんの「軍隊のないこと日本の強さが意味するもの」が心に大変響きました。(45歳女)

初めて戦争体験の貴重なお話を聞くことができ、本当によかったです。今まで、そんなに深く戦争のことを考えた事がなかったのですが、今日を機に考えさせてもらいました。(13歳女)

大学で満州国前後の時代のことを勉強したり、研究したりしています。ですから、今日のお話に非常に興味を持っております。実際に聞いたら、当時の日中両国の人々の生活の状況に対する理解が深まっていきました。また、「えらい人間」ではなく、「りっぱな人間」に成長していくよう頑張ってまいりたいと思います。(27歳男)

70年前の私の、想像もできないような体験談を聞いて驚きました。戦争が、人々の暮らしや人間の尊厳までも破壊してしまうということが、とても恐ろしいと思いました。(44歳女)

今日の話を聴いて戦争はもう2度とやりたくないと思いました。戦争をやりたいという人がいるなんて、正直がっかりです。大人のくせにと思いました。(11歳女)

木下さんのお話を聴きつつ、毎年何かの形で体験にふれたいと思いました。忘れてはならないことですから。(44歳女)

やはり体験者の方のお話はリアルで、その時の情景が頭に浮かんできました。今朝テレビで見ましたが、被爆者の平均年齢は、今88歳らしいです。なので、これから私たちがこの戦争の話を受けつぎ、伝えていかなければならないと思いました。(15歳女)

子どもたちは修学旅行などで戦争体験者の方のお話を聞く機会がありますが、親世代の私は初めて聞くことができました。映像で何度も見ることはあっても、語りべから心情をこめての話は本当に心にぐっとくるものがありました。つらい経験をされ、語るたびに思い出されるつらさは本当にさけたいと思うことでしょうが、伝えなければ…という思いからお話してくださり、ありがとうございました。(女)