信州・安曇野教育の源流(その1)
-井口喜源治、相馬黒光、荻原守衛、上原良司、そして平塚らいてう- ピースあいち研究会 丸山 豊

          
   



 この夏、安曇野から鹿教湯温泉(泊)、四阿山(あずまやさん)あずまや高原を訪れた。
 きっかけは「ピースあいち」の夏の企画展である。何度も訪れている安曇野だが、「上原良司」の視点から安曇野を歩いたことはなかった。
 乳房(ちぶさ)川にかかる乳房(ちぶさ)橋から北アルプス常念岳の前にそびえる有明山に向かって「さようなら、さようなら、さようなら」と叫んだ上原良司の姿を追ってみたいというのが妻の希望である。私はどちらかといえば相馬黒光(そうま こっこう)、碌山(ろくざん)に興味があった。
 名古屋を出るときの予報は信州は雨、しかし安曇野に入ると日差しも出て、幸先よしと国道を北上していくと「井口喜源治(いぐち きげんじ)記念館」の案内表示を妻が見つけ、入ることにした。

絵はがき

この井口喜源治からつながった  

1.井口喜源治記念館に入る

 ほったらかしの庭の角に未だ紫陽花が咲いている駐車場らしき空き地に車を止め、ひょっとしたら休館日かなと思いながら玄関の前に立つと、中から1人の男性(70代)が「どうぞ」と扉を開いてくれた。(後で判明したことだが、このガイドの男性は井口喜源治の孫で井口喜文副館長だった。)
 実をいうと井口喜源治なる人物は全く知らなかったといっていい。事前の穂高の役場の情報では「相馬黒光に関心があるなら井口記念館がいい」と教えてくれただけの入館だった。喜源治は、小さな「研成義塾(けんせいぎじゅく)」という私設塾をこの村に作ったらしいが、できたら上原良司、荻原守衛(おぎわら もりえ)、相馬黒光でも分かればおもしろい」ぐらいの軽い気持ちで入館したのだった。

 ところが中に入ると驚くことばかり。実物資料を目の前にいろいろ説明を聞くうちに「安曇野の文化と歴史の深さ」を知ることとなった。「井口喜源治」と安曇野の風土、そこに育つた人物像が、私の中で次々とつながっていったのである。
 まず、この地に自由民権運動の歴史を持つ社会的土壌があった。そこにキリスト教ヒューマニズムが持ち込まれ、穂高の若者を惹きつけ1891(明治24)年、相馬愛蔵を中心に東穂高禁酒会が生まれた。井口喜源治も一員だ。禁酒の寄り合いは夜の学習会となり、その学びは、農村の因習的な生活改善から、歴史、経済、英語に及んだ。まるで私擬憲法草案を学びのなかから誕生させた五日市の青年たちのようである。この中から研成義塾は誕生した。
 松本中学同窓で自由民権運動に詳しくキリスト的社会主義者となる木下尚江や、内村鑑三も講師としてこの地を訪れている。彼らは安曇野に足を運び、若者たちに何を語ったのだろうか。

 この記念館は狭いが、大きな歴史の流れを感じさせてくれた。
 「ピースあいち」が取り上げた上原良司の「自由主義」も、この安曇野から考えるべきではないかとも感じたわけである。

2.相馬良(そうま りょう)(黒光)の嫁入り持参のオルガン

絵はがき

相馬 良(黒光)(1876~1955)  

 まず目に入ったのが入り口にあった古い壊れかけた明治のオルガン(日本で二番目に古い)。音は出ないだろう。良が相馬愛蔵と結婚する時、実家仙台から安曇野へ持参したものだ。彼女は12歳で洗礼を受けている。夫となる愛蔵もキリスト者だった。このオルガンは長尾杢太郎(ながお もくたろう)の「亀戸(かめいど)風景」が飾られた相馬家の洋間に置かれた。このオルガンと油絵は、有明山、常念岳という江戸時代から変わらない安曇野の風景に、近代ヨーロッパ文化が忽然と現れたような文化的ショックを与えた。(このインパクトを一番感じていたのが荻原守衛だった。)井口、相馬愛蔵、良、ともにキリスト無教会派だったから、教会建立を目的としていない。オルガンの周りに人の輪が大きく成長していったのだろう。

絵はがき

日本二番目に古いオルガン(井口記念館蔵)  

  なぜ「井口喜源治記念館」にこのオルガンがあるのか。黒光にとって井口喜源治は尊敬できる良き相談相手であったこと、(新宿)中村屋開業のため東京へ赴く際、三歳になる娘、俊子を安曇野にひとり残した悔い。(俊子は、インドの独立運動家ボースと結婚、中村屋のインドカリーはここから始まる。)このオルガンはやがて俊子が女学校進学のため上京にあたり黒光から研成義塾に寄贈された。
 井口喜源治、相馬愛蔵、良夫妻、荻原守衛はもちろん、木下尚江、後に講師として研成義塾を応援した内村鑑三もこのオルガンを囲んで賛美歌などを歌ったかもしれない。とにかく安曇野の文化のシンボルであった。


※相馬良(黒光 1876 - 1955)とはどんな女性だったか少し触れたい。「黒光」はペンネーム。
 仙台の士族に生まれる。小学校時代から当時、異端視された教会に通い賛美歌を愛した。少女時代その美貌と知性の高さからアンビシャス・ガールといわれた。家の没落などの不幸を乗り越え上京しフェリス女学校へ入学するが、事情があり明治女学校へ転学している。ここで島崎藤村は良を教えているが藤村の教師としての評判はよくない。東京では良の挫折もあり東京を離れ1897(明治30)年に安曇野の相馬愛蔵と結婚。しかし彼女はその後安曇野に飽きたらず東京に出て夫愛蔵と新宿中村屋を開業、実業家として成功しただけでなく幅広い文化人、芸術家を支援し文芸サロン「中村サロン」の女主人公でもあった。平塚らいてうより10歳年上であり、「新しい女」であり「魅せられる女」だった。
 臼井吉見『安曇野』は彼女の生涯を見事に描き出している。中高の歴史教科書、もしくは図説資料には必ず荻原守衛(碌山)の彫像【女】の写真がある。立ち膝で両手を後ろに回し、もがくように天を仰ぐ【女】の姿は、荻原が慕い憧れた相馬良(黒光)だった。【女】の像は安曇野の碌山美術館にある。
 ちなみに自由民権運動の女性運動家岸田俊子にあこがれ、長女に「俊子」と名付けた。旧態依然の因習の打破、自由民権への理解、キリスト教的社会改革、近代文化への開花などを併せ備えた黒光への思慕がやがて恋になり、悩んだ荻原守衛の絶作が【女】であった。
※長女俊子:画家中村彝(つね)は娘俊子に激しい恋をし、また彼女をモデルにした作品(少女など)を多く遺している。俊子は彼との結婚を母黒光に猛反対され、ボースと結婚した。

3.井口喜源治と「研成義塾」で学んだ人

絵はがき

井口 喜源治(1870~1938)  

 今でこそ「穂高の聖者」「無名の大教育家」「ソクラテス、ペスタロッチ」と評価される井口喜源治だが、彼が1898(明治31)年11月に設立した小さな私設塾「研成義塾」はどのように誕生したのか。
 1870(明治3)年に南安曇郡穂高町に生まれた井口喜源治は、松本中学(現長野県立深志高)で米人宣教師エルマーに出会いキリスト教を知る。明治法律学校を中退して尋常高等小学校の教師となり安曇野に戻った喜源治は、キリスト者として、相馬愛蔵らが立ち上げた「東穂高禁酒会」「芸妓置屋反対」運動の先頭に立った。2人を結びつけたものは、小学校、松本中学の同級生でありキリスト者としての同志的友情だったと思われる。愛蔵の妻、良の理解も必要だった。しかし、村民らの矯風(きょうふう)運動への反発は強く、ついに自ら教壇を去ることとなる。

 同志として井口の辞職を惜しんだ相馬愛蔵らは、有志を募り、私学校の創立を試み、1898(明治31)年開校させた。「研成義塾」である。塾頭は井口喜源治、キリスト教的教育に没頭できる私塾が安曇野に誕生した。「よき人になれ」、これが教育目標であった。
 農家の一角で研成義塾は開校した。当時の写真を見ると崩れそうな藁(わら)葺き屋根の小さな家である。板の間にはむしろが敷かれていたという。7学年に22名の生徒、教師は井口喜源治たった一人だった。井口直筆の時間割が記念館に残されている。英語は毎日必ず1時間組まれていた。安曇野から世界を見通していた。
 明治の初めに、アルプスの麓の山里でこのような教育が誕生した。信州教育の源流をここにみる事ができる。
 木下尚江、内村鑑三らの支援を受けながら、この小さな塾から世界で活躍する人物が育った。荻原守衛も井口の影響を受けたその一人で、アメリカへの留学の時も井口の世話になっている。「暗黒日記」でアジア太平洋戦争を批判した朝日新聞記者、清沢洌(きよざわ きよし)も井口の教えを受けた1人である。
 研成義塾は、信州の自由民権運動の理念を受け継ぎ、キリスト教人道主義、そして非戦平和、自由主義、国際主義につながる学びをしていたといえる。


 *次回(その2)で触れるが、上原良司はこうした安曇野の歴史・文化・風土の中に生まれ育った。彼が死を直前にして渇望した自由主義の背景はここにあった。

4.荻原守衛(碌山)と井口喜源治

絵はがき

荻原 守衛(禄山)(1879~1910)  

 荻原守衛(碌山)は1879(明治12)年、相馬愛蔵、井口喜源治と同じ南安曇郡東穂高村に生まれた。1894(明治27)年15歳の時、相馬愛蔵らが設立した禁酒会に入会、夜学会にも参加して井口喜源治の影響を受けた。研成義塾設立前である。
 守衛(17歳)と相馬黒光(21歳)との出会いから、やがて一枚の油絵が守衛の人生を変えていった。安曇野の相馬家洋間に飾られた長尾杢太郎作の「亀戸風景」である。黒光(相馬良)が持参したものだ。
  守衛は研成義塾には入塾しなかったが、井口喜源治を敬愛し小さな塾を支援した。開設1周年記念写真にその姿がある。

 彼のそばにはいつも黒光がいた。守衛は黒光によって文学や絵画、社会、文化の知識を吸収し、芸術家を志す。1899(明治32)年10月、黒光を追うように東京に出て本郷にある小山正太郎の画塾で絵を学ぶこととなった。20歳の時である。守衛が上京するときは、井口は研成義塾の生徒とともに穂高川の畔まで見送ったという。
 1901(明治34)年のアメリカへの遊学では、精神的には喜源治、経済的には相馬黒光に支えられた。また守衛は人道主義的立場から日露戦争を批判した。
 1907(明治40)年、28歳の守衛は初めてロダンを訪問し、ロダンに師事し才能を開花させた。帰国して3年後、結核で黒光らに惜しまれ急逝した。30歳の若さだった。

 彼の黒光への思いは絶作「女」に凝縮されている。「女」を最初に見たのは、そこに自分を感じた黒光だった。彼の死を最も嘆き悲しんだのも彼女である。

絵はがき

禄山美術館の【女】(公式HPより)  

  両手を後ろに回し、ひざまずき
  何かから逃れようと身体をよじり
  顔を上げ光を求める自分の姿
  その人はその場に崩れ落ちた
     三浦久作詞「碌山」3番歌詞より

  この歌詞とは違い「孤絶した深い淵から希望にも似た一種法悦の輝きが溢れ、『女』は崇高ですらあった。まさに苦悩を突き抜けて歓喜に至った感がある。」「愛する心が生んだ作品が『女』であり・・・芸術は最終的には愛」(碌山研究家仁科惇)と見る人もいる。

 

 今度、碌山美術館を訪れ、じっくりと鑑賞したい。また井口喜源治はこの作品をどう見たのか?上原良司はどうだったのか知りたいところである。


*荻原碌山(守衛1879~1907):師と仰ぐ井口喜源治はじめ内村鑑三、北村透谷(とうこく)、田中正造の影響を受けた。当時の新聞「萬(よろず)朝報」などにも目を通し社会的関心も深かった。特に相馬黒光からは『女学雑誌』を借り読みふけっていたという。英語、聖書、経済、哲学、歴史など20歳までに自由な精神を作りつつあった。彼の作品、生き方は後の長野県の教師たち(信州白樺派)に大きな影響を与えたといわれる。

次回(その2)9月掲載予定
5.内村鑑三と井口喜源治・研成義塾
6.自由の地下水と信州教育―研成義塾のその後
7. 安曇野の風土と上原良司
8. 不思議な縁 ○副館長井口さんと上原良司  ○鹿教湯で   ○らいてうの家で

参考文献
 臼井吉見『安曇野』(筑摩書房 1987)
市民タイムズ編『臼井吉見の『安曇野』を歩く』上中下巻(郷土出版社 2008)
中島博昭『あゝ祖国よ恋人よ』(信濃毎日新聞 2005)

引用写真(訪問時 デジカメの充電が不十分で撮影がうまくできなかったため以下より引用)
・井口喜源治記念館:さわやか信州旅.net:長野県公式観光Webサイト
・オルガン : http://mapbinder.com/Map/Japan/Nagano/Azuminoshi/Iguchi/Iguchi.html
・女:碌山美術館公式HPより