「文化は戦争に優先する」というウォーナー伝説の真偽                             ボランティア 林    收



名古屋城

炎上する名古屋城天守閣

名古屋城天守閣炎上
 「ピースあいち」常設展示室の入り口正面やや左寄りに、一瞬入館者の目を奪う「炎上する名古屋城天守閣」の写真があります。黒煙が空一面を覆ったため、快晴の日中にもかかわらず、夜と錯覚していた人もいたと語り継がれています。

 

「ウォーナー伝説」の誕生
 太平洋戦争時、アメリカの美術史家ラングドン・ウォーナー博士(Langdon Warner、1881-1955)が、文化財保護の観点から、空爆すべきでない地名のリスト(ウォーナー・リスト)を作成して米政府に進言したから、京都、奈良、鎌倉などの文化財が焼失を免れたという説があります。これが「ウォーナー伝説」といわれるもので、1955年ウォーナー博士の死の直後、日本政府から勲二等瑞宝章を贈られているのがこの説の真実性を裏付けているように見えます。

 

 この説の根拠は、昭和20(1945)年11月11日付の朝日新聞が、「京都・奈良無傷の裏作戦、国境も越えて『人類の宝』を守る。米軍の陰に日本美術通」という大見出しのもとに、美術史界の大重鎮といわれる矢代幸雄氏の談話として「開戦とともにこういった委員会(ロバーツ委員会 注1 のこと)を設けて軍と連繋をとって行った米国政府の文化尊重方針に、私はまず敬意を表したい。もちろん日本のためでもなくアメリカのためでもなく、国境を、時代を越えた高い意図から出発した組織であろうし、何物をも破壊しつくす近代戦争の遂行中でのことだから百パーセント所期の目的を達することはできなかっただろうが、この線に沿って万全の努力を払ったことに対しては脱帽したいと思う。」と報道したことよるところが大きいと思われます。

 

名古屋城

鎌倉駅西口前の記念碑に刻まれた『文化は戦争に優先する』の言葉

 民間でも顕彰の証として、全国に6カ所の記念碑を建てています。表題の『文化は戦争に優先する』とは、神奈川県鎌倉市鎌倉駅西口前の公園にある記念碑に刻まれた碑文の標題にされています。
  しかしながら、当のウォーナー博士はいろいろな機会をとおし一貫してこの「ウォーナー伝説」を否定していたと言われています。

機密文書の公開により暴かれた「つくり話」 
 1994年アメリカが公開した戦争中の機密文書により、長い間、京都や奈良を救った恩人として日本人の間で称えられてきたウォーナー博士の“功績”は、つくり話であったことが確定しました。文化財リスト、いわゆる「ウォーナー・リスト」は実在するものの、日本の代表的文化財を列挙したものであって、爆撃除外のリストではなかったというのが事実と考えられます。「ウォーナー・リスト」にあった名古屋城天守閣、大垣城、広島城、岡山城、青葉城、首里城が全焼し、このほかにも空襲を免れなかった文化施設・文化財が多数あることを考えれば、博士の否定発言の方が正しいことになります。

 

研究者の目 
 歴史研究者の吉田守男氏の研究発表によれば、ウォーナー博士の文化財保護の話はGHQ民間情報教育局の情報工作による宣伝であって事実とは異なるとし、古都が空襲に遭わなかったのは、京都は原爆投下目標都市であったから通常の空襲は禁止されており、奈良・鎌倉は小都市であり軍事施設が少ないため爆撃の順番が遅いほうにリストアップされ、実行前に日本が降伏したからである、と結論付けています。

 

本

1995年7月刊行の初版本
絶版後「日本の古都はなぜ空襲を免れたか」
と改題して2002年再刊されている。

 なお、吉田氏は著書「京都に原爆を投下せよ ウォーナー伝説の真実」において「ウォーナー・リスト」が空襲と何の関係もなかった例として、『米軍による爆撃によって焼失した日本の文化財は、国宝二九三件、史蹟名勝天然記念物四四件、重要美術品一三四件であり、合計四七一件もが灰になったという。先の〈ウォーナー・リスト〉には一五の城が掲載されているが、このうち、名古屋城天守閣・首里城・青葉城など八つもの城が戦火で焼失している。全国に無数といってよいほど多数存在する城のうち、リストに掲載されたのはそのうちの代表的なもの一五に過ぎないにもかかわらず、その半数が爆撃によって失われたのである。逆に〈ウォーナー・リスト〉に記載されなかった彦根城、富山城、丸岡城などの名城は爆撃をうけていない。これでは、爆撃を制限するためのリストであるどころか、爆撃の目標に定めるためのリストだったのではないかと考えざるを得ないほどである。』と記述しています。
 この吉田氏の研究に対する有力な反論がないので、近年は、この説のほうが正しいとされています。

「創作された民間伝説」再浮上への警鐘
 このような事情にもかかわらず、形として残った各地の記念碑では、年中行事の一つとして「ウォーナー博士報恩供養会」を催したり、観光案内のスポットとしてウォーナー博士の「美談」をガイドしたりしているところがあります。
 歴史学者・岡倉登志(たかし)氏(岡倉天心の曾孫)が論文 注2「日露戦争前後の岡倉天心」の中で『意図的ではなかったにせよ、NHKが「アーカイブ」という番組で、現在では否定されているウォーナーが第二次世界大戦の戦禍から古都を救ったという神話を真実とする番組を再放送 注3している。』と懸念されているように、この種の歴史的捏造伝説は静かに身を潜め、いつか機をみてその姿を甦えさせられるものであることに注意しなければならないと考えます。

 

注1 東洋および欧州の諸戦場における貴重な美術や史跡を戦火から救わんとする目的で、1943年にアメリカで作られた「戦争地域における美術および歴史遺跡の保護救済に関する委員会」(委員長はアメリカ連邦最高裁判所元陪審判事オーエン・J・ロバーツ氏)を指すと思われる。
注2 五浦論叢 : 茨城大学五浦美術文化研究所紀要 12 (2005.11.30)所載
注3 NHKが、現代の映像「ウォーナー・リストの戦後」のタイトルで昭和45年(1970年)放映したものを「アーカイブス」として平成14年(2002年)3月17日に再放送した。